済井出の人口と産業

済井出の近代の人口の動向を見ると、まず明治13年は戸数85、人口は510人(内男264)である。同36年には632人(内男308)で、この間1.2倍に増えた。同年平民560人に対し士族は73人(12%)で、屋我地では少ない方である。また、下って昭和14年には戸数121、人口683人(内男337)を数え、それまでの60年間に人口は1.3倍に増えている。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和40年の708人から同60年には585人へと、ここ20年間で約8割に減っている。

羽地村では大正5年に伊差川の深田原で耕地整理が行なわれたのが最初だが、済井出も同年に耕地整理組合を発足させ、集落西側のフカダプロー(深田)・トーバル(桃原)・シリブロー(世利)の低地20町歩で事業が実施された。また、水稲の台中65号種は少し遅れて昭和7年頃から普及し、合わせて2期作がひろがった。製糖は、それまでの旧式製糖場(4カ所)を改め、昭和5年に製糖組合を発足し、県補助を受けて大型の動力圧搾機を導入・設置した。

戦後、昭和25年に済井出農協が設置され、農業を基盤に戦後の産業が展開していく。昭和38年に公民館が建設された。屋我地でのコンクリート造り公民館の最初である。 現代の済井出の産業は(就業者構成表参照)、就業者259名の内、第1次産業41%、第2次産業8%、第3次産業51%という構成で、第3次産業(とくにサービス業)の比重がやや大きい。この傾向は、ここ15年おおむね変化していない。

第1次産業の主力は農業・畜産業である(農業基本統計表参照)。作目としてはキビが中心であり、一方畜産は養豚が盛んである。ここ15年の動きを見ると、農家数はやや減ったものの、専業農家が増えている。経営耕地面積は、済井出全体として約80haで、以前に比較して12haほど減った。1戸平均では92aである。作物の収穫面積の9割をキビが占めている。

現在の済井出の農業景観は、なだらかな丘陵地に大区画のキビ畑が一面に広がっており、山原では特異な景観である。これは、饒平名区域にまたがって昭和46年度に着手された沖縄農業開発実験調査地区農業構造改善事業(PP事業、昭和49年度完工、72ha)および昭和47年度に着手された屋我地東部県営圃場整備事業(昭和51年度完工、95ha)によって、キビ作を主体とする大圃場がつくられたことによる。

養豚は以前から盛んであったが、昭和52~53年度にかけて、済井出養豚団地(豚舎17棟)が建設整備され、現在では5,000頭以上が飼養され、屋我地一の規模を誇る。また養鶏は、1万羽ほど飼われている。

漁業従事者は僅か5名だが、舟揚げ場が設けられ、沿岸漁業の他に、季節には薬となる海人草の採取も行なわれる。

出典:「わがまちわがむら