中山のあゆみ、小年表
中山小年表
1940年 お宮を山入端の古島拝所跡に造る。
1943年 行政区中山として独立。
屋部小学校中山分校設立。
1975年 沖縄国際海洋博覧会に伴う県道116号線の改良により交通の便よくなる。
中山のあゆみ
近世の中山
近世の頃、現在の古山入端原あたりには山入端村があった。1737年に山林保護のために現在の安和兼久に移された(球陽)。
近現代の中山
その後、いつ頃から再び人が住み始めたのか定かでない。言い伝えによると、明治の初期あるいはそれ以前に、那覇や首里などから士族が住み始め、屋取集落を形成した。その頃は、藍・茶・樟脳などを産していたという。山間地であるために田は少なかったが、谷間を利用した小さな田はあった。その裏作に作るタードーシウムは、中山の特産物だった。
昭和18年、戦時体制の強まる中、隣の旭川と共に分区独立した。それまでは、鳥小堀が屋部、内山と道又が山入端、古山入端は屋部・宇茂佐・宮里に属していた。
山間部にある中山では、遠い屋部小学校まで通うのもたいへんなことで、父兄らは早くから学校の誘致運動を進めていた。昭和21年それがかない、屋部小学校中山分校が創立し、1年生から4年生まではそこに通うことができるようになった。
昭和30年頃からパインが導入され、山々の開墾が進み、山原でも有数の栽培地となった。
昭和50年、沖縄国際海洋博覧会に伴い県道116号線が整備され、名護市街地への交通の便がよくなった。またその沿道には観光客向けにパイン園などが立った。現在、名護運天港線の整備が進められ、それが開通すれば中山は本部半島の主要道路の交差点に位置することになる。
出典:「わがまちわがむら」