玉城金三

玉城金三(たまぐすくきんぞう)

玉城金三は、俗名クガニヤマ(黄金山)と呼ばれ、明治、大正時代に主に首里寒水川芝居で活躍した沖縄芝居役者である。彼の記録(軍隊手帳)によると、

生年月日:明治十一年(一八七八年)五月十日

本籍:沖縄県平民 一戸主 玉城金三

所在地:首里区寒川三四番地

となっており、

没年:昭和三二年(一九五七年)四月二九日(行年八十才)

住所:名護市字名護(大南八班)

である。

彼の長男嫁の玉城綏子によると、金三は大正末期頃まで役者をし、渡嘉敷守良とともに大阪公演をしたことを大変誇りにしていたとのことである。彼の後輩の真境名由康によれば、金三は大変器用な役者で、たまに名護から那覇に出てきた時には、芝居を覗き、ネタを仕入れていたよ、とのことである。

彼は、大正末頃、辻の大火災で劇場も焼け、世界的な大恐慌もあり、役者の多くが廃業、四散した頃、妻の奨めで名護に移住してきたようである。妻は大宜味村田嘉里の出身であったので、子どもたちの教育のため名護を選んだようだ。

また、金三は名護の資産家ウンサンチ(比嘉栄佑)とも以前から親しくしており、その支援も当てにしていたのであろう。当初は、彼の通称ともなった黄金細工の技術を生かして、当時新進の技術であったブリキ細工をし、バケツや如雨露などの生活用品を作って店は大繁盛していた。ところが、当時の山原の各ムラは、村踊りの盛んな土地なので、役者としての彼の器量を見逃す筈はなく、村踊りの頃になると、方々のムラから踊り指導の依頼が来た。

もとより芸事の好きな役者である彼は、家人に断りもなく、仕事を放り出して二つ返事で依頼するムラに行き、二、三カ月も行方不明になることがあった。彼は、踊りや劇を教えるだけでなく、芸能衣装や小道具も器用に作るので重宝がられた。謝礼には、金銭もさることながら、ムラで収穫した米もどっさりあった。

村踊りも済んだ頃、彼は、どこそこのムラに自分はいるから米を取りに来るように、と家に連絡した。すると長男の常正と次男の常弘はリヤカーを引っ張って、三里、四里の山坂を越えて受け取りに行った。彼が賞う謝礼は十分に家計を潤したようだ。あてにならない彼の性格であったが、妻は辛抱強く付き合って、六人の子どもを育て、男の子は名護在の三中(沖縄県立第二中学校) へ、女の子は三高女(沖縄県立第二高等女学校) へ通わせた。

彼が教えた村踊りは、名護市の城や仲尾次、辺野古で現在でも大切に受け継がれている。芸能の盛んな山原の村々の芸能は、どちらかといえば琉球王府時代の「御冠船踊り」の演目が主であるのに対して、彼が教えたムラの芸の特徴は、彼が最も活躍した大正時代の芝居で流行った演目となっていることである。例えば、名護市字呉我には、彼が最も得意とする「京太郎」(「義民」)があり、仲尾次、辺野古には松明を持って男女で踊る打組踊り「谷茶前」がある。

出典:「芸能