大川のあゆみ・小年表
大川小年表
1880年頃 首里・那覇・泊。本部・今帰仁からの士族が移り住む。
1927年 大浦の大浦股・道股を分けて行政区として独立。
1945年 中・南部の疎開者・避難民多数収容される。
1956年1月 大川河川の護岸工事竣工。
1958年6月 公民館落成。
1961年 共同売店落成。
1970年頃 パイン・バナナなどの栽培が農地の半分を占める。
1973年頃 水田が消えキビ作に変わる。
1982年5月 大川農村集落センター落成。
1983年 番越林道完成。
出典:「わがまちわがむら」
大川のあゆみ
大川は、明治12年の廃藩置県以降に首里や那覇・泊、中南部・本部・名護から寄留してきた人たちが、大浦村の小字ミチマタやウフマタに住み着いて形成された。大正時代には、50軒程あった。その後、昭和2年に行政区大川として大浦から分離した。地籍は、未分離のままの独立であったが、戦後昭和26年に地籍も分離した。
戦前は、薪や炭や木材を二見から与那原方面に山原船で積み出していた。また、キビの栽培は、戦前から行なわれていてサーターヤー(砂糖小屋)跡が地名として残っている。当時、ほとんどの家が炭焼きをしており、炭焼ガマの跡も見られる。
沖縄戦直後、中南部をはじめ各地からの疎開。避難民で大川の人口は大きく膨れ上がり、一時期4,000人余に達した。収容所生活から開放された昭和21年1月でも、1,732人を数えた。そして、避難していた人々がそれぞれの故郷に帰村して、地元も落ち着いた翌22年10月には、戸数83、人口364人となった(久志村誌)。
昭和31年には、大川の護岸工事が実施された。大浦川沿いは、かつて水田が広がっていた。そこはシダキダ(瀬嵩田)と呼ばれ、瀬嵩の人の所有であった。今では、ほとんどが大川の所有地となり、キビ畑となっている。
出典:「わがまちわがむら」