許田

許田区の現況

世帯268 人口549 面積6.19k㎡ (2017年現在)

許田は、方言でチューダと呼ぶ。東に石岳(236m)や久志岳(335m)があり、西は名護湾に面している。福地川の河口付近は、入江をなし許田の内海と呼ばれている。

許田には、「港きよらさや湖辺底港 泊きよらさや那覇とまり」と謡われる湖辺底港がある。湖辺底港は、要津のひとつで、近世貢租の積み出し港として機能した。また、テミジュ(手水)は平敷屋朝敏(1700~1734年)による「手水の縁」(組踊)でよく知られたところである。

国道58号線が海岸線寄りに走り、また沖縄自動車道の北の出入口にもなっている。他に、許田から宜野座村カタバルヘ抜ける横断道路(県道108号線)があり、昭和8年に郡道として整備されたものである。かつて、許田から世冨慶までの曲がりくねった道路は、名護の七曲りとして知られた。昭和50年の海洋博覧会に伴う道路整備で、直線道路になってしまった。

集落は、名護湾に注ぐ福地川の河口の砂地に碁盤目状に形成されたティミジュ(手水)を中心に、名護湾に面したクヒンジュク(湖辺底)、山手のクチャマタ(古知屋又)、福地川沿いのフクヂバル(福地原)がある。ティミジュが許田の中心となる集落で、その東側の入江が埋め立てられ、公民館やグランドが建設され、また新しい集落が形成されつつある。

主な施設に、許田青年会室・名護警察署許田警察官駐在所・県企業局許田ポンプ場・中央食品加工場・ヘリオス酒造工場・手水焼などがある。

許田区のあゆみ

先史~古琉球の許田

ティミジュの集落内に、沖縄貝塚時代後期(約2000~800年前)の許田貝塚がある。沖縄貝塚時代後期の土器片が採集される(名護市の遺跡2)。

許田の村の草分けと伝える旧家がある。マシドゥヤー(桝取屋)とメームトゥ(前元)・メーヌヤー(前屋)の3軒で、400~500年前のことだという。

近世の許田

近世の許田は、17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」に「久田村」とみえ、「由来記」(1713年)から「許田村」と記される。「久田」は、マキやマキヨなどと同様古代部落の呼称だと言われている。

「高究帳」による許田の石高は、40石余り(田38石余、うち永代荒地7石余を含む。畠1石余)である。

湖辺底の名称は、地形が小瓶の底に似ていることに由来すると言われる(国頭郡志)。自然の良港として近世期から貢租を集め、薩摩への仕上世米[しのぼせまい]の積み出し港として利用された。湖辺底津口には、中頭の美里や山原の名護・金武・恩納・久志の五ヶ間切の貢租が集められ積み出された。現在でも沿岸の小型船の船着き場として、あるいは避難港として利用されている(名護六百年史)。

程順則(名護親方:1663~1734年)が、この湖辺底に舟を浮かべ冴え渡る月の銀波に影を浮かべながら詩を吟じたとも言われている(戦前新聞集成l)。

近現代の許田

許田の近代の人口を見ると、まず明治13年には戸数61、人口280人(内男152)であり、三共地区では小規模な村であった。同36年には585人(内男308)を数え、この間に人口は21倍と大きく増えている。それは、同年の平民人口310人に対して士族人口は277人(47.2%)という多さからも分かるように、主としてこの間の寄留士族の移住によるものと思われる。なお、当時許田は名護間切では最も士族人口の比率が高い村であった。

廃藩置県後、首里・那覇からの士族が福地原や湖辺底原に寄留し、屋取集落を形成した。山林資源と漁場をもち、許田タムン(薪)は質が良いことから、その名が那覇で通っていた。特に、ムチャカラやチカチ(オキナワシャリンバイ)の薪は高級品だったという。

許田の地割は7年ごとに行なわれ、一地(地分けの単位)の配当は男子15歳以上が受け、女子はその五分。一地は、田が271坪3厘で畑が311坪2歩6厘であった(南島探験)。

明治39年許田橋の橋側に、漁業地を設ける計画があった。明治37,8年の旱魃で蓄魚林であった御神山の老樹が枯れ、ガチュンの漁獲が少なくなった。そのため、御神山を保護林としたところ次第に緑が増え、碇泊中の船にまで「ガチュン」が寄り付くようになったという(戦前新聞集成1)。

昭和14年、許田の水面埋立願いを県に提出した。それは、耕地拡張を行なうためで、面積は仲俣内地先7段5畝13歩と湖辺底内地先1町1段3畝歩(計1町8段8畝13歩)であった。

手水川は、簡易水道が引かれるまで村の水源地として利用された。戦前は、木が鬱蒼と茂り水量も豊富であったが、戦後木が切り倒され水量が減ってしまった。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和35年には118世帯・651人であった。人口は、昭和41年頃からやや減り始め、同52年までその傾向が続いた。同53~57年の間は変動がなかったが、最近少し減少し、昭和60年現在481人を数える。この25年間に4分の1程人口が減少したことになる。世帯数は、昭和47年にかけてやや減ったが、以後少しずつ増えて、現在は140世帯を数える。25年前に比べて約2割増えている。

許田の産業の現状を産業別就業者の構成について見てみると(同表参照)、就業者213名のうち、第1次産業29%、第2次産業37%、第3次産業34%という構成で、他の区に比べて第2次産業(特に製造業)の就業者が多い点に特色がある。昭和45~50年に第1次産業が大きく減少し、以後現在の構成となっている。

許田には、中央食品加工場の他、ウイスキーおよび泡盛「手水」を製造するヘリオス酒造工場がある。また、近年焼物の手水焼も開窯した。

農業について見ると(農業基本統計表参照り、キビが基幹作物であるが、近年花き類と施設園芸が伸びている。ここ15年では、農家数が72戸から47戸へと3分の2に減るとともに、経営耕地面積も全体として38haから17haへと半減している。各作物の収穫・栽培面積も、この15年の間に計39haから16haへと4割になった。これは、現在実施中の土地改良総合整備事業(区画・潅厩15.5ha.昭和57~64年度)の影響にもよる。パインや水稲は作られなくなった。なお、昭和49年度に名護市で初期の野菜団地(構造改善事業・4.0ha)が整備されたが、現在では花き類に比重が移っている。

畜産は盛んではなかったが、幸喜と共同事業で肉用牛の畜舎が建設され(昭和57年度)、現在20頭が飼養されている。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の御獄として、「由来記」(1713年)に泊口湊ロノ獄(神名イベヅカサ)とヨリアゲマキウノ獄(神名イベヅカサ)が記される。さらに神アシアゲがあり、どちらも喜瀬ノロの管轄である。

現在の御嶽として、集落の北にクシヌウタキ(後ヌ御嶽)、西の岬の方にメーヌウガンがある。旧公民館の向かいに部落火ヌ神、その少し南にも拝所がある。拝井泉としては、集落の南方、許田又にアミガーがある。

拝みの中心となるのは、根屋であるマシドゥイヤーの系統である。

現在も続く伝統的年中行事は、表にみるように、旧3月のサングヮチャー、5月のウマチーなどがある。

芸能

村踊りは、3年あるいは5年に一度、旧8月10日前後に2日間やり、その内の1日は敬老会を兼ねる。婦人会・青年会・成人会が中心となって踊りや劇を披露し、子供会による出し物もある。以前は「チューダウドゥイ(許田踊り)」と言われるくらい有名で、山を越えた久志あたりからも見物にきたという。特に史劇「新城親方忠義伝」は有名である。

旧7月のお盆には、婦人会を中心に盆踊りが行なわれているが、ずっと以前はエイサー唯)あったという。

文化遺産

許田には、市指定の史跡・天然記念物が2件ある。「許田の手水」は、平敷屋朝敏作の組踊「手水の縁」にちなんで広く知られている。この手水は、もともと山裾の湧き水(樋川)で、昔から生活用水として使われてきた。

許田の手水はまた、琉歌にもよく歌われてきた。いくつかを紹介すると、「馬よ引き返せしばし行ぢ見ぼしや音に聞く名護の許田の手水」(与那原親方良矩)、「面影よ残す許田の玉川になさけ手にくだる水の鏡」(玉城親方朝薫)、「昔手にくだる情から出ぢてなまに流れゆる許田の手水」(詠み人知らず)、「見る人はつめていきかはりがはりいつも流れゆる許田の手水」(粟国親雲上)、「手水しゆて代々に名を残す人の いきやしがな行衛たづねぼしやの」(喜瀬筑登之)。昭和48年11月27日、市の史跡に指定された。

手水の北の森に生育するウバメガシは、この木の分布の南限地とされる。高さ8m,推定樹齢270年のウバメガシの老樹が1本ある。許田ではナーナシギと呼ばれる。昭和48年11月27日、市の天然記念物に指定された。なお、伊是名・伊平屋島にはウバメガシの林がある(名護市の文化財第二集)。

升取屋に伝存する「元祖由来遺言記」(1892年)、「字許田手水川新築寄附筆集」(大正9年)をはじめとする地域史料は貴重である。

許田の小字一覧

ナガハマ/フィラシ[長浜原/長浜]

ンナトゥガー[湊川原/湊川]

ティミジ/クシヌカー[手水原/手水]

メーバル[前原/前原]

ヒンジュク[湖辺底原/湖辺底]

ナカフ[仲保原/仲俣]

クチャマク[古知屋又原/古喜屋又]

フクジ臨地原/福地]

オーイシバル/イシダキ[大石福原/大石福]

許田は9小字からなる。中心部ティミジは、有名な組踊り「手水の縁」で知られる。クチャマタは宜野座村松田の旧古知屋へ行く途中の又から名付けられた。廃藩置県後、首里・那覇からの士族が福地原・湖辺底原を中心に移り住み、屋取集落をつくる。

許田小年表

1880年頃 首里・那綱から士族が移り住み、福地原・湖辺底原に屋取を形成。

1917年3月 許田耕地整理組合設立。

1927年3月 手水に飲料用水池を設ける。

1933年4月 産業開発資金により許田・古知屋線開通(県道108号線)。

1939年7月 耕地拡張で水面埋立て許可申請する。

9月農家21名で有畜農業組合を結成、県に承認申請する。

1957年4月 許田駐在所落成。

1959年5月 許田町有林軍接収予告。

1961年10月 許田簡易水道落成。

1973年11月 許田の手水とウバメガシ、市の文化財に指定される。

1977年3月 米軍戦車道開削により、許田・久志水源地、南明治山試験林が被害を受ける。

5月 戦車道建設に抗議する区民大会を開く。

1979年1月 12月29日の米軍による機銃乱射事件に抗議する市民大会を許田埋立地で開く。

8月 許田公民館新築落成。

1984年4月 手水焼き始まる。

5月 大石福原でダンプが米軍のM85重機関銃を被弾する。

許田の行事・活動一覧

昭和60年1~12月

1.1 初御願

1.2 第1回トリムマラソン大会、新春球技大会

1.4 新春書き初め大会

3.31 区民総会

4.13 清明祭

4.23 サングヮチヤー( 旧3.4)

5.26 第7回区民運動会

▲稲穂祭三日崇(由来記)

6.23 歩け歩け大会(成人会主催)

7.2 ウマチー( 旧5.15 )

▲年浴(由来記)

六月ウマチー* 各戸で

8.29 盆踊大会

▲柴指(由来記)

9.28 区民総会

▲ミヤ種子(由来記)

10.6 豊年祭、敬老会

11.24 産業視察

▲芋ナイ折目(由来記)

トンジー*旧11月、各戸で

フイゴ祭*旧11月、各戸で

12 . ムーチー*旧12月、各戸で