幸喜

幸喜区の現況

世帯136 人口285 面積4.29k㎡(2017年現在)

幸喜は、方言でホウキあるいはホウチと呼ばれる。幸喜は耕地(河内・川内)、あるいは砂原からなる「乾地」とも解されている(宮城真治:沖縄地名考)。名護市の南西に位置し、海岸寄りに国道58号線が通り、北側は名護湾に面する。

集落の東西と南側に山林があり、その山林を源として幸地川やアミガー(阿見川)などが合流、さらに集落の南側で里又川が合流して幸喜川となり、名護湾に注ぎ出る。宜野座村松田と境をなす古知屋岳(284m)は、幸喜ではヤックヮダキと呼んでいる。

集落は、ウシヌファウタキ(丑の方御獄)やトゥラヌファウタキ(後の御獄)を背に、小字ニシマ(西間原)に形成されている。

主な施設に、瀬喜田小学校・名護市民海水浴場・三共地区出荷場、それに幸喜焼・ナゴパラダイス・コロンバン・幸喜ドライブインなどがある。

幸喜区公民館 名護市幸喜46

幸喜の小字一覧

二シマ(バル)[西間原/西間]

ナハガニク[仲兼久原/仲兼久]

クルシキ(バル)[黒崎原/黒崎]

ヒトゥマタ(バル)[里又原/里又]

ホーチ(バル)[幸地原/幸地]

キナダ(バル)[喜納田原/喜納田]

マクバル[又原/又原]

シナガバル/シンジャ[瀬長原/瀬長]

ハークンディ(バル)[赤混田原/赤混多]

クヒンズク/ヒンズク[湖辺底原/湖辺底]

アキダカ[明高原/明高]

幸喜は11小字からなる。ムラウチと呼ばれるニシマが集落の中心部。湖辺底は現在幸喜と許田に分かれているが、明治32年までは幸喜地内であった。幸喜の発祥の地と言われる。クヒンズクとは小瓶の底のような地形に因む。ハークンディ(赤混田原)はもろい赤土で崩れやすく、ホーキアカパガ-で知られた。昭和7年頃土砂留め工事をなし、戦後保安林が育成された。

幸喜は、近世幸地とも記され、また小字にホーチがある。喜瀬や名護にも同名の小字があるのは興味深い。

幸喜区のあゆみ

先史~古琉球の幸喜

現在のところ、幸喜に古琉球以前の遺跡は確認されていない。

近世の幸喜

近世の幸喜村は、17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」で「幸喜村」、1688年(寛文8)の「琉球国郷村帳」には「桑喜村」、あるいは「幸地村」(地方経済史料)ともみえる。

「高究帳」による幸喜村の石高は、84石余り(田78石余、永代荒地22石を含む。畠6石余)であった。

幸喜の御冠船踊りは、1866年(同治5)の御冠船(最後の冊封使趨新)のとき、余興芸能が催された。そのとき出演した恩河親雲上が、廃藩置県で職を失い、幸喜に寄留している間に御冠船踊りを伝え、今に残るという。

近現代の幸喜

近代の幸喜の人口を見ると、まず明治13年には戸数94、人口418人(内男220)である。同36年には510人(内男254)で、この間に人口は1.2倍に増えている。また、同年の平民人口431人に対して士族人口は75人(14.8%)で、名護間切ではやや士族の少ない村であった。

明治16年の調査によると、幸喜村の地割基準は年齢により設定している(沖縄県文化財調査報告書6)。明治26年に沖縄を踏査した笹森儀助の『南島探験』によると、幸喜は7年ごとに割り替えを行ない、配当を受ける者は15歳以上の男子で、女子は同歳で五分。その他の男女は二分ないし八分を受ける。そして、幸喜村の一地(地分けの単位)は、田が197坪3歩で畑が72坪3歩9厘であった。幸喜は土地が痩せていたため、割当地は隣接する喜瀬や許田村、それに遠く離れた勝山(臼金又原・猫川原内)にもあったという(幸喜部落のあゆみ)。

明治22年、幸喜に名護尋常小学校の分校が設立され、同30年に瀬喜田小学校として独立した。学校名は、喜瀬・幸喜・許田の三力村から一字ずつ採ったものである。学校敷地が狭く移転問題も起きたが、移転することなく旧敷地に再建された。

幸喜の海外移民は明治38年頃に始まり、その後大正・昭和初期に多くの人たちが米国・カナダ・ブラジル・アルゼンチン・ペルーや東南アジアの国々へ移住した。その国で成功して永住した人・病死した人・帰郷した人など様々であった(幸喜部落の歩み)。

幸喜の主要作物は、大正時代までキビやイモ・稲(一期作)・麦などであった。明治時代は、換金作物としてキビの他にウコンが栽培されていた。明治初期まで、集落の周辺や現在の宅地の一部はウコン畑で、薩摩へと上納として納められていたという。大正5、6年になると丘陵地まで段々畑として利用しなければならなくなり、山稼ぎを日課として生活する状況にあった。昭和に入りキビやイネの優良品種の導入があった。稲の台中65号は幸喜では昭和6年に植え付けされたのが最初で、以来二期作ができるようになった。

昭和5、6年頃、猪から農作物を守るため、約21mにおよぶ猪垣を鍬やツルハシ・ジョレン・モッコなどで構築した。戦後も猪の害が甚だしく、戦前の猪垣を改修し各戸や人口に割り当てて管理した(幸喜部落の歩み)。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和35年には77世帯・460人であった。人口は、昭和30年代後半にかけて少し減った後、昭和46年頃までは変動がなかった。同47年から再び減少傾向となり、現在は263人を数える。この25年間で6割弱に減ったことになる。世帯数はほとんど変化がなく、昭和60年現在78世帯である。

戦後になって、戦災で荒れた土地や旧開墾跡地ばかりでなく、さらに新しく開墾し耕地面積を広げ、稲やイモの栽培が行なわれた。昭和26年にはキビ(NCO310号種)が導入され、また生産増強で山地の開発がブームとなり、一部パインの栽培が行なわれるようになった。

メンバイ(前のバイ)辺りは戦災で焼け、戦後間もない頃、当時の区長の発議で碁盤目状に二間道路を通す計画案が出された。部落事業として承認され着手されたが、問題が多く断念せざる得なかった。

昭和30年頃まで、飲料水は掘り抜き井戸を利用していたが、水質が悪いということで簡易水道に切り替えることになった。アミガーから送水管を敷設して、集落内の七カ所に蛇口を設置した。その後、各家庭まで水道が引かれ恩恵を受けた。

幸喜の産業の現状を産業別就業者の構成について見てみると(同表参照)、就業者108名の内、第1次産業47%、第2次産業13%、第3次産業40%という構成で、第1次産業が半ば近くを占めている。昭和45~50年に第1、2次産業の就業者が減り、第3次産業が急増したが.その後は上のような構成に安定している。

農業について見ると(農業基本統計表参照)、幸喜はキビと水稲を基幹作物としてきたが、近年は水稲がなくなり、野菜類,施設園芸が伸びている。ここ15年の間に、農家数は53戸から40戸へと4分の3に減った(第2種兼業農家に著しい)。また、幸喜全体の経営耕地面積は、一時期大きく減ったものの、現在約30haを有している。昭和60年の収喚面積がキビ・水稲を中心に大きく減っているのは、土地改良事業(県営畑地帯総合整備事業。52ha。昭和56~63年度)実施中という事情がある。畜産は、一時期養豚が900頭規模まで伸びたが、近年は激減している。なお最近、肉用牛の飼養が増えているが、これは許田と共同で肉用牛の畜舎を整備したことにもよる(昭和57年度、10棟)。

喜瀬からつづく美しい海岸線は、夏場を中心に海水浴客で賑う。その国道58号線側にはレストランや民宿が立地し、また観光施設として丘陵地にナゴパラダイスが開園している。近年、幸喜焼が開窯し、独特の焼物を送り出している。

幸喜小年表

1880年頃 恩河親雲上、御冠船踊りを伝える。

1889年1月 名護尋常小学校分校設立。

1897年 瀬喜田尋常小学校として独立。

1898年 砂糖樽検査所設置。

1909年6月 瀬喜田小学校学芸会を開く。

1916年5月 瀬喜田校区で名護村青年会第1部会を設立。

12月 瀬喜田連合青年会総会開催。

1920年 瀬喜田尋常小学校に高等科併置。

1932年 県の生活改善指導部落に指定。

6月幸喜飢鯉。75戸中60戸芋作なく、蘇鉄を食糧にあてる と、県に報告達する。

1933年 県下に先駆けて便所の改善、回虫駆除を実施。

1934年 共同浴場・託児所の諸施設を整備。

産業5カ年計画を樹立、発展を図る。

1935年3月 猪害防除垣1千余間を築造。

5月 幸喜保育所(32年開設)県より表彰され、慈愛旗表彰状助成金を贈られる。

1937年1月 県下の模範として有栖川宮厚生資金を伝達される。

1944年8月 台風のため瀬喜田校新築校舎倒壊し、暁部隊駐屯兵6名圧死する。

近くの山陰に避難壕を築く。

1945年3月 全住民山中深く避難する。

6月米軍により宜野座村に収容される。

1948年4月 瀬喜田中学校創立(併置校)。

1955年8月 幸喜簡易給水道通水。

1959年2月 幸喜・喜瀬町有林軍接収承諾署名。

1969年5月 幸喜区公民館落成。

1975年8月 瀬喜田中学校、全国中学校庭球大会で優勝。

1978年3月 『幸喜部落の歩み』刊行。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の御獄として、「由来記」(1713年)にシラカネ獄(神名イベヅカサ)が記される。さらに神アシアゲがあり、そこの祭祀も喜瀬ノロの管轄である。当時の月々の祭祀は、一覧表の「由来記」記事に見る通りである。

現在の御獄は、集落の東にウシヌファウタキ(丑ヌ方御嶽)とトラヌファウタキ(寅ヌ方御嶽)、西にトゥイヌファウタキ(酉ヌ方御嶽)がある。公民館の向かいに神アサギ、裏にはニガミヤ・ミートゥンチ・ヌンドゥンチ・ウプドゥンチが並ぶ。集落の北のはずれには、アミダーシという旧3月3日に拝む拝所がある。

大正の頃まで、根神の他に男神2人を含む8人程の神役がいた。根神はニガミヤから、その他はウフヤ・ウプドゥンチ系統から主に出る。

現在も続く伝統的年中行事は、表に見るように、旧2月の二月ウマチー、3月の三月三日、4月のアプシバレー、5月の五月ウマチー、6月のミミキリクンドウシ、7月第2の亥の日のウンガミ、8月の神御願、10月のウンネームなどがある。

芸能

幸喜も村踊りの盛んな所である。柳・高平良万才・四つ竹などを得意とし、特に柳は有名で、県芸術祭などにも出演している。昭和49年には、古典芸能保存会も結成され、村踊りの継承に力を入れた。踊りは、旧8月9日・11日・13日の3日間行なわれる。旗頭を先頭に部落内を回ったあと公民館に戻って、舞台での踊りが演じられる。組踊には「久志の若按司」などがあり、演目の最後にやる。踊り手は成人会・婦人会が中心になる。

棒は、踊りの前に演じられていたが、今はしない。

文化遺産

幸喜には文化財として指定を受けたものはないが、芸能の「幸喜の柳」はかねて評価が高い。

ハル石は、市内の一宇としては妓も多く、次の6個が確認されている。「け・にしま原」「こ・にしま原」「く・せなか原」「ケ・すろき原」「申・すろき原」「し・すろき原」。このうち「すろき原」は現在の地名とまだ対比できていない。

幸喜には名木というべき樹木が多い。戦前、幸喜は200本以上の老福木に囲まれた集落のたたずまいをしていた。今、老福木は一部にしか残っていないが、「三月庭のフクギ」(推定200年)はその貴重な福木群である。幸喜の浜の岩礁にたつ「幸喜の一本松」はもと根元のくっついた二本の松であったが、1981年の台風で枯れて「一本松」になった。「瀬喜田小学校のセンダン」は、明治41年(1908)の6年制への学制改革記念に植えられた木である。瀬喜田校には他に「クワノハエノキ」(推定130年)、「モンパノキ」(推定40年)など名木が多い(名護市の名木)。

幸喜の地域史料の確認はこれからである。特筆すべきことは地域誌の出版である。津波仁栄氏による『幸曹部落の歩み』(1978年)、宮城岸清氏による『昔を語る』(1981年)や「明治・大正・昭和時代における幸喜の世相史」(1984年)など、貴重な仕事が続いている。

幸喜に伝わる様々な伝説から、次の三話を紹介する。

ハナゴーリの幽霊

幸喜と湖辺底の間にハナゴーリと呼ばれる所がある。そこの岩がちょうど人の鼻が壊れた形をしていたので、そう呼んでいた。そこには、昔から幽霊が出るという話があった。

廃藩置県の頃、恩河親雲上という方が幸喜に住み、村の人々に踊りを教えていた。その妻は、湖辺底に働きに出ていて、帰る時にはいつも日が暮れていた。その日も日が暮れてから、その幽霊が出るという所を通ろうとすると、前から白いものがカチカチと音をたてて近づいてくる。びっくりしたその奥さんは、メーチャー(下着)を取って頭にかぶり、一目散に走っていったそうだ。昔は幽翌を見たらそうすればいいと言われていた。しかし、後で聞くと、それは白いズボンを着た警官だったそうだ。

ハタムンダーの由来

湖辺底原にハタムンダーという所がある。なぜそう呼ぶかというと、昔首里の高貴な女が失恋して、山原に下りてきた。その人は黄金で作られた立派な機[はた]を持っていたが、それを抱えたまま、そこで自殺したという。それからそこをハタムンダーというようになった。戦前までは、清明祭の時にはそこを拝んでいた。

瀬長崎の由来

南山の侍に瀬長按司という人がいた。戦いに敗れ、家来とともに山原に落ちてきて、そこで最後を遂げた。それで瀬長崎と呼ぶようになった。

そこには、自然壕を利用した墓が造られていて、厨子甕が7つくらいあった。20年前に、その墓は村人たちの手できれいに閉じられた。

(以上、昭和61年民話調査より)

幸喜の行事・活動一覧 昭和61年1~12月

1.2 初御願

1.3 部落初集会

1.23 御願解き(旧12.24)

3.19 二月ウマチー

4.11 サングヮチサンニチ(旧3.3)

4.13 清明祭

5.18 若草おたかい・アブシバレー(旧4.15以前の戎の日)

▲稲穂祭三日崇(由来記)

6.21 五月ウマチー(稲穂祭、旧5.15)

▲年浴(由来記)

7.21 六月ウマチー(稲穂祭、旧6.15)

7.31 ミミキリクンドウシ(旧6.25)

8.23 ウンガミ(海神祭、旧7月第2の亥)

▲柴指(由来記)

9.12 豊年祈願祭(旧8.9)

9.13 神御願(旧8.10)

9.14 豊年祈願祭(旧8.11)

▲ミヤタネ(由来記)

11.6 ハンクヮー

11.26 ウンネーム(旧10月戊)

▲芋ナイ折目(由来記)

12.8 ムーチー

12.22 冬至折目