[ぐすく]

城区の現況

世帯数:297世帯 人口:970人 面積:0.09k㎡

城は、方言でグスクあるいはグシクと呼ばれる。その由来は、城の故地であるナングスク(名護城)のグスクにちなむ。幸地川(別称アナダ川)が、城の東側を名護湾に注ぎ出る。

海岸寄りに国道58号線が通り、また城の中央部を城通りが東江から宮里に向けて通る。国道58号線の通りから海岸寄りは、昭和47年から49年にかけて埋立てによってできた土地である。城の行政区域は、小字城の一部からなっている。一小字しか持たない小規模な行政区である。

集落は、カニク(兼久)地に立地し、城通りを挟んで両側に碁盤目状に形成される。名護の市街地の一画をなしている。

主な施設に、市営城駐車場・大西医院・比嘉医院・名護歯科・沖縄相互銀行・コザ信用金庫名護支店・キタボーリングセンター・名護国映館・名護シアター.青い海保育園などがある。

城区のあゆみ

先史~古琉球の城

城には、城古銭出土地と城の故地である名護グスクに遺跡群がある。

城古銭出土地は、幸地川の河口付近に位置し、出土した古銭の一部(14個)がある。嵩寧通宝・慶元通宝・嘉泰通宝・端平通宝・至正通宝・洪武通宝が発見されている。

ナングスク遺跡群は、名護市街地の東方にある丘陵地の名護城[ナングスク]にある。時代は、グスク時代中期から近世にかけての遺跡である。グスク土器や類須恵器・中国製の青磁・染付、それに沖縄製の陶器などが採集される(名護市の遺跡2)。最近、名護グスクで二重の堀切が発見され性目されている(後述)。

近世の城

17世紀中頃の「絵図郷村帳」に城村とみえる。城村と名護(東江)村、それにかねく村とで三箇と呼ばれる。17世紀中頃の「高究帳」や「由来記」(1713年)に、城・東江・かねくの村名はみえず、名護村だけが出てくる。その名護村は、城・東江・かねくの三力村を含んだ村名である。

「高究帳」にみる三ヵ村を含んだ名護村の石高は、447石余り(田432石余、うち永代荒地39石余、畠14余)であった。その石高は、名護間切で最大である。

「由来記」にも「城村」は出て来ないが、「夫地頭伊地味大屋子」がみえ、その「伊地味」は、名護グスクの麓にある伊地味川に由来するという。伊地味川を管理するのが城村の長で、城の夫地頭になると川の伊地味をとって夫地頭に名付けたという(名護六百年史)。そのことは、村名としては出てこないが城村があったことを示す。城の村名が史料に出てくるのは、近世末の同治4年(1865)になってからである(地方経済史料)。

近現代の城

明治13年の城の人口は、戸数80、人口497人(内男265)を数えた。なお、同36年の城の人口は、城・東江・大兼久を合わせて名護村とされたので、不明である。

城は、大兼久村の一部をなす海岸の砂浜に立地した。水は豊富で住むのにいい場所であった。ナングスク付近から移動してきたが、土地が狭く大兼久村に抱えられた恰好となり、村が袋状になっていた。しかも、田畑に利用できる面積が少なく、屋敷地の配分も困難になってきた。そのため、明治2年(1869)に城村の有志が大兼久村に土地交換の件を申し入れた。その条件は、大兼久村は城に接続する我那覇当[ガナハ・アタイ](現在城三班の東半分)を城村に譲り、その代わりに城側は旧名護高校と現市営グランドを大兼久に譲渡する。もう一点は、我那覇当に住む大兼久住民が移転を希望すれば、城村が移転工事の一切を請合うことであった。しかし、大兼久村に拒否された。それで、田地奉行へ訴え出て数年がかりで土地交換をすることで決着がついた。

城村は、我那覇当を得ることができたので分家を移動させた。しかし、それでも足りなく次に群倉[ブリグラ]付近まで譲渡を願い出た。田地奉行は城の主張を聞き入れた。城は、さらに群倉に続く土地も手に入れようとしたが、それは認められなかった。城村と大兼久村の間の25年間に及ぶ土地紛争である(名護六百年史)。

城村は、明治36年の土地整理のとき東江と大兼久と合併して名護村となった。合併したものの祭祀や村行事は別個に行ない、ひとつの村としてまとまることができなかった。明治41年に「沖縄県及び島喚町村制」が施行され、間切が村に村が字になった。翌42年の議会は、元に戻して行政区城・東江・大兼久とした。その行政区城が、現在につながっている。

戦後の昭和21年5月、小字城と港原の一部を割いて行政区港区が分離成立した。

戦後の人口の推移は、グラフに見るように、昭和35年には373世帯、1,827人であった。城は市街地の一画を構成するが、区域内で新たに宅地を求めることが難しく、区の周辺に出ていく人が多いという。昭和35年から同41年にかけては毎年25人程増えたが、同42年に急減した(港区との組み替えかによるか?)。その後、昭和40年代前半は1600人台で大きな変動はなかったが、昭和51年以降徐々に減少し、現在970人を数える。この25年間で約半減したことになる。一方世帯数は、昭和30年代後半から40年代は大きな変動はなかったものの、50年代に入って僅かずつ減り始め、現在297世帯を数える。25年前に比べて2割程減っている。

城区の産業の現状を産業就業者の構成について見ると、就業者412名の内、第1次産業5%、第2次産業12%、第3次産業82%という構成で、第3次産業の就業者が大半を占めている。ここ15年、就業者総数は4分の3に減り、第2次産業部門がやや減ったものの、産業一就業者の基本的な構成は変わっていない。

第3次産業では、卸小売業が多く(54%)、サービス業(33%)がそれに次ぐ。他は公務(5%)・運輸通信業(5%)となっている。

比重は小さいが農業を見ると(農業基本統計表参照)、現在農家は11戸で、経営耕地は全体で3ha程である。以前はキビ・パインも作られたが、今は果樹(温州みかん)が多い。畜産では150頭規模で養豚が行なわれている。

伝統文化

拝所と祭祀

「由来記」(1713年)の名護村の項に記されるテンツギノ嶽(神名イベヅカサ)を、東江・大兼久村と同様、近世の御嶽と見る。また、神アシアゲもあり、祭祀は名護ノロが司った。当時の月々の祭祀は、一覧表の「由来記」記事に見る通りである。

現在、集落は城下の砂地に移ったが、拝所は故地である名護城[ナングスク]に残る。名護城は名護三箇(東江・城・大兼久)の御嶽でもある。名護城の頂上部の広場には神アサギ、下って西側の斜面には、名護城の拝殿やクバヌシチャの他、ウチガミヤー・ヌルドゥンチ・根神屋・プスミヤーなどがある。また、城の先祖とされる名幸を祀る名幸祠もそこにある。現在の集落には、名護城への遥拝所としてアパナクの拝所が設けられた。

戦前までは、ヌル・根神の他、ウチガミ・ユムイガミ・サグンガミなどがいた。根神はイジグチ、アパナクからは神女を出していだという(国頭の村落)。

現在も続く伝統的年中行事は、表にみるように、旧4月のアプシバレー、7月のエイサー、9月の奉納祭、10月の火の御願などがある。

芸能

豊年踊りは、旧9月9日を初日に3日間行なわれる。初日の朝、区民はアパナクでの御願を済ませて、名護城のティンチヂヌムイに登る。そこで、御願の後、神アサギの前でかぎやで風・上り口説・国頭サバクイを奉納する。それから公民館に戻って舞台で踊りが披鰯される。

戦前までは、組踊もあったが、戦後は比嘉宇太郎氏作の「許田の手水」「シガマ森」「ヒートゥドーイ」などの劇が盛んに演じられた。得意の国頭サバクイは、別れの日の最後に踊られる。七福神・松竹梅も独特の手を持っている。

青年会を中心にしたエイサーも盛んであるが、それは戦後瀬底から伝わったものだという。

文化遺産

名護城[ナングスク]は、現在では「桜まつり」の名所として全国に知られている。歴史的には、城をはじめ東江・大兼久などの故地とされ、また近世以前の名護間切(現在の久志地区・東村を含む)を支配した名護按司の居城と伝えられる(名護六百年史)。

遺跡の発掘調査が行なわれていないので、詳しいことは分からないが、最近実施された測量調査の結果、二重の堀切で防御された見事な城塞的グスクであることが分かった(安里進:やんばる茶話21)。以前から、名護城が石垣や土塁を備えていないことが不思議とされてきた。表面から採集される遺物から、名護城は14世紀頃のグスクと想定されているが、自然の地形を利用し、さらに人工的に削り、大小二カ所の堀切を設けることで城塞としての姿が整えられた。堀切をもつグスクは、沖縄本島北部から奄美に分布する独特な様式のグスクといわれる。名護城は聖域として良好に保存されてきており、未指定であるが重要な史跡としての価値が高い。

名護城はまた、樹種が多く、植生も豊かであり、現在公園整備事業が進められている。とくに御嶽周辺には老樹名木に価する木がいくつかある。まずタブノキは樹高13m・推定樹齢230年を数える。側のアカギも樹高15m・推定樹齢120年の古木である。ほかに推定樹齢100年に達するツゲモドキもある。そから少し下った所に名幸洞の拝所があり、その庭には樹高14m・推定樹齢130年のリュウキュウマツが生育している(名護市の名木)。市街地におりて、城区の東端のアパナクと呼ばれる所に、城村の発祥に関わる拝所がある。福木・ビロウと並んで樹齢150年を数える見事なガジマルが繁っている(比嘉親平:前掲書)。

城区にはいくつかの碑が建つが、特に名護城に集中している。上り口に建つ「名護城の由来碑」は、名護人発祥の地である名護城の歴史を刻んでいる(宮城盛雄:名護碑文記)。

階段を上り、途中の道に沿っては、大正期の本土出稼ぎの逸話に関する「白い煙と黒い煙の碑」が名護市街地を望んで建てられ(宮城ハル:前掲書)、名幸洞には仲昔北山の血筋を引く名幸の由来を刻んだ「名幸記伝の碑」が建つ(比嘉親平:前掲書)。さらに、名護青年の家の手前には、沖縄戦で戦死した九州5県の球[たま]7071部隊(宇土部隊)約3,000名の霊を慰める「和球の碑[にぎたまのいしぶみ]」が建てられている(岸本好永:前掲書)。そして青年の家の前庭には、開所20周年記念事業でできた運動広場を記念して「ふれあいの碑」が建てられた(山城修:前掲書)。市街地の城公民館の前には、よく知られる「浦々の深さ名護浦の深さ名護のみやらびの思いふかさ」の歌を刻む歌碑が建っている。当初、浜に宝舟を模した設計で建てられたが、埋立てに伴い現在の場所に移された(比嘉親平:前掲書)。

城の地域史料は、「元祖由来書日記」(1888)ほか数点が確認されている。現在、字誌づくりが取り組まれており、その過程でさらに多くの地域史料が発掘されるであろう。一方、城区では以前から貴重な資料・図書の出版が続いていることも注目される。早くは、比嘉宇太郎氏による「先祖の来歴を尋ねる記」がある。『わかりやすい兼久田門中のお話』(昭和57年)は、その内容を発展させた本である。そして最近、宮城盛雄氏によって『名護人の雑記帳』(昭和62年)と題する、名護を中心とした歴史と文化の立派な本も出版された。

城小年表

1869年 大兼久に対し土地の交換を申し入れる。

1880年 大兼久に対し2回目の申し入れ。

1893年 大兼久に対し3回目の申し入れ。

1903年 4月附属員を廃止。

1907年 4月税務署内の専売官吏派出所、城村に移る。

1909年 3月学事奨励会を開催する。

6月大城軍平・山里三郎・山入端牛五・比嘉大雄の発起で夜学会を設立。

8月行政区城に復する。

9月名護青年会城支部員、城の浜で水上運動会を催す。

1912年 2月城海岸に丸万旅館新設。

3月山入端松正医院開業。

1915年 6月五月御祭の折に青年有志集まり農畜産物品評会及び爬竜船・青年運動会・仮装行列を催す。

1918年6月 城海岸埋立て工事認可(21年埋立て完了、2,800坪)。

1923年 3月鰹船組合操業を始める(翌年9月解散)。

1930年 8月台風の津波で城海岸の民家6棟流失。

1932年 11月城海岸に砂糖同業組合名護支庫建つ。

1936年 6月産連、城海岸に樽板製材工場を設ける。

1940年 12月城山林道開設工事始まる。

1943年 4月城会館に健民修練所開設。

1946年 5月行政区港分離。

1950年 11月城海岸突堤近くに食糧倉庫竣工する。田井等サプライ移転。

1968年 9月台風デラのため東江・城・港の護岸決壊。

1976年10月 名護城社殿48年ぶりに改修。

1982年9月 「兼久田門中のお話し』刊行。

城の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

1.1 区新年会、ナングスク初詣

1.22 城を語る会

2.19 幼児園終業式

2.23 汀間にて遺骨収集

3.19 区評議委員会

3.19 幼児園卒園式

3.29 ナングスク桜木肥培管理作業

▲麦の穂御祭

4.1 区長就任式

4.12 幼児園入園式

4.13 清明祭 *各戸で

5.7 老人会総会

5.16 名護城神殿修理

5.23 アブシバレー(旧4月)

5.30 婦人会総会

5.31 育英会総会

▲稲穂祭三日崇(由来記)

▲稲穂祭(由来記)

▲山留(由来記)

6.1 第10回区民運動会

6.12 人物誌編集座談会

6.21 ウマチ拝み(旧5.15) *各門中

▲年浴(由来記)

▲ ルクグヮチウマチー

▲ 二ジューグニーチ

7.13 婦人会視察

7.19~ 夏休み朝のラジオ体操

7.24 老人会視察

▲海神祭(旧7月後の亥の日)

8.12 七夕・虫干し(旧7.7)

8.18~20 エイサー区内回り(旧7.13~15)

8.22 婦人会・青年会盆踊り

▲ヨーカビー(旧8.9)

9.9 有志・評議員会

9.18 豊年祭人配り決定

9.19 豊年祭練習に入る

▲ミヤ種子(由来記)

10.5 名護城清掃

10.12~14 奉納祭(旧9.9)

▲ タントゥイ

11.13 婦人会評議員会

11.23 火の御願(旧10.20以降)

11.30 敬老会

▲芋ナイ折目(由来記)

12.20 青年会ダンスパーティー

12.24 ウグヮン *各戸で

*婦人学級を毎月開催