屋我のあゆみ・小年表

屋我のあゆみ

先史~古琉球の屋我

屋我には、屋我グシク遺跡群や墨屋原遺跡・墨屋原浜崎遺跡がある。屋我グシク遺跡群は、屋我から済井出にいく途中右手にあり、グスク時代中期から近世にかけての遺跡である。屋我グシクの南側は、プルジマ(古島)と呼ばれ村の発祥地とみられる。

この屋我グシクを中心とした一帯は、1858年に墨屋原に移動する以前の崖我付のあった所である。昭和55年に発掘調査が行なわれ、中腹の平坦地に貝殻を敷き詰めた約500年前の祭祀場跡が発見された。他に小貝塚や住居跡・中国銭・青磁(南宋)・多量の鉄滓(てっさい)などが確認された。

墨屋原遺跡は、屋我地自然休養村管理センター付近の海岸沿いにあり、名護市で最も古い遺跡である。沖縄貝塚時代(早期)、沖縄貝塚時代中期・後期の遺跡である。沖縄貝塚時代早期の土器(約5000~4500年)や中期(約2500~2000年)の土器、それに奄美地方の土器片(面縄前庭式土器)や石斧などが採集されている。

墨屋原浜崎遺跡は屋我市営住宅地内にあり、沖縄貝塚時代中期から後期にかけての遺跡である。昭和55年に試掘がなされ、中期の宇佐浜式土器片や後期土器片、それに住穴などが確認された(名護市の遺跡2)。

近世の屋我

近世の屋我村は羽地間切に属し、17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」に「屋賀島」とみえ、屋我地島の他の村名はでてこない。

「高究帳」にみる屋賀島の石高は122石余り(田115石余、畠6石余)である。

屋我付は屋我地烏で最も古い村と言われ、饒平名村と済井出村は、屋我村からの分かれだとの伝えがある。済井出の拝所が屋我グシク付近にあるのはそのことを示すものか。

近世への過渡期を示す天啓5年(1625)の「やかのろ職補任辞令書」が残っている(県立博物館所蔵)。屋我ノロは、屋我をはじめ饒平名や済井出も管轄した。

1858年(咸豊8)に、屋我村は元から民居が少なく、近年ますます少なくなり貢賦を調達し夫役をだすことができない。そのため、地理師にお願いして、村の建っている場所をみせたら、山地が広く子孫が繁盛しないという。農業をしたり水を汲むのに便利な場所を得たいので、村を西米耶原(墨屋原)に移すことを王府に願いでて許可された(球陽)。

近現代の屋我

近代の屋我の人口の動きを見ると、まず明治13年は戸数28、人口123(内男62)である。同36年には192人(内男97)で、この間約1.6倍に増えている。同年の平民161人に対し士族は33人(17%)で、羽地間切ではやや士族人口の割合が商い。下って昭和14年には戸数31、人口142人(内男71)を数え、それまでの60年間に15%ほどの増加をみた。

戦後の人口の動きは、昭和39年258人、昭和50年210人、昭和60年248人と、途中やや減ったもののほとんど変わっていない。昭和28年に屋我地大橋が奥武島を経由して本島の真喜屋側に架設され、島内へのバスの乗り入れが始まった。7年後の昭和35年チリ津波のため大橋は破壊され、再び渡し舟での通行となり不便を強いられた。3年後の昭和38年美しいラーメン型の屋我地大橋が再建され、交通の不便さは解消された。

屋我の産業は、就業者136名の内、第1次産業28%、第2次産業40%、第3次産業32%という構成で、第2次産業(とくに建設業)の比重が高い点に特色が見られる。15年前との比較でいえば、第1次産業が減少した分、第3次産業が増えたといえる。

屋我の農業は、経営規模が小さく、しかもキビ作に集中している点が特徴である。

漁業従事者は9名おり、整備された屋我桟橋を拠点にしている。

出典:「わがまちわがむら