仲尾

仲尾区の現況

世帯数:72世帯 人口:125人 面積0.58k㎡ (2017年現在)

仲尾は、方言でナコーあるいはヌホーとかノホーと呼ばれる。村名の由来については定説をみないが、「中の丘」と解する考え(宮城真治:沖縄地名考)や、ノホウ・ヌホウに野生や奴生の漢字をあて、安らかな地・作物のよく育つ地とも解されている(かんてな誌)。

別名カンティナとも呼ばれ、勘手納や寒汀那・勘定納などの漢字があてられる。勘手納の由来は、王府時代に仲尾村に定物蔵(公庫)が設置され、上納米を勘定することに由来するという(国頭郡志)。

北は羽地内海に面し、対岸に屋我地島がある。南側に丘陵地が広がり、それに囲まれた海浜低地(小字仲尾)に集落が形成されている。かつては、集落の奥まで海岸線が入り込んでいたという。

現在の仲尾は、パンダ(半田)にある仲尾古村遺跡から移動してきた集落である。丘陵の麓部分の上バーリと下バーリの屋敷はやや不規則に並び、中央部の中バーリの方は碁盤目状の集落となっている。屋敷の回りには、防護林として植えられた福木が目につく。

マダハー(真高)やパンタ(半田)には丘陵地が多く、その小さな谷間は以前水田に利用されていた。現在は土地改良事業によって地形が大きく変わり、かつての面影を探すのは難しい。集落の北側海岸を県道124号線が通る。昭和61年に公民館の海岸側が改修された(集落環境図はそれ以前の状況)。

仲尾集落センター 名護市仲尾143番地

仲尾のあゆみ

先史~古琉球の仲尾

パンダとマダハーに、グスク時代後期から近世にかけての仲尾古村遺跡がある。14世紀の染付と線刻蓮弁文の青磁が出土する。また、近世期の沖縄製陶器では古我知焼が多い。ほかに、土器・白磁・灰白磁・南蛮陶器などが少量確認されている(名謹市の遺跡2)。土地改良で遺跡のほとんどが失われ、キビ畑に変わった。

「中山世譜」や「球陽」は、北山攻略(1416年)の時、浦添按司・越来按司・読谷山按司・名護按司・羽地按司・国頭按司が先に進み官軍は後から行き勘手納港に集結して江を渡って北山を攻め入ったと記している。

近世の仲尾

17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」ではひら仮名で「なかう村」、1713年の「由来記」以後は「中尾村」とニンベンのない中の漢字があてられている。「琉球一件帳」以後の資料では、ニンベンのある仲の字があてられ今日に至っている。

仲尾村には、1622年の羽地間切の大のろくもぃ補任辞令書が残り、次のような文面になっている。「首里の御ミ事 はねしまきりの大のろくもい もとののろのうまか 一人ひやかなに たまわり申候 天啓二年十月一日」(かんてな誌所収)。これまで確認された辞令書の中で、「しより」に首里の漢字があてられた初期のものである。羽地間切の「大のろくもい」職を、元のノロの孫である「ひやかな」に賜ったという内容である。

「高究帳」による石高は、121石余り(うち田119石余、畠1石余)である。水田の多い村であったことが知れる。

1785年の「親見世日記」に、勘手納津口で御米を積んで出帆した記事がみえる。また、「支那冊封使来琉諸記」(1866年)に、冊封使が琉球に来ている時は、島尻や中頭方の米の積み出しは浦添の牧湊まで陸路で運び、馬艦船で運天・勘手納へ運び、そこで御国船(大和船)に積み込むことが記されている。勘手納港は、大ロへの仕上世米[しのぼせまい]を積み出す重要港としての役割を果たしていた。

1816年琉球に来たバジル・ホールは、当時の仲尾村について次のように描写している。「湾の先端にあるこの村は、浜辺との間の一列の樹木によって北風から守られ、背後はだきかかえるような丘陵によって保護されている。浜辺との間に広い道が走り、家々の周囲に植えられた樹木は欝蒼[うっそう]と茂って、建物をおおい隠さんばかりである。墓地に近い村の中央には広場があって、すでにのべた高床式の穀物倉の一群が建っている。壁は網代[あじろ]の編んだ藤でつくられ、ねずみ返しが設けられていた」(朝鮮・琉球航海記、1818年)。

道光15年(1835)村の敷地が狭いので勘手納と東兼久に引っ越して家を造った。両兼久の竿入れをしてみたら、百姓持の土地なので村敷(屋敷)にしたいと願い出て認められた。この時期に、勘手納に7家族が、また東兼久には4家族が引っ越してきたことが知れる(羽地間切肝要日記)。古村から勘手納への移動である。

近現代の仲尾

近代の仲尾の人口の動きを見ると、まず明治13年には戸数59、人口314人(内男164)である。同36年には425人(内男203)で、この間人口は約1.4倍に増えた。また、同年の平民人口431人に対して士族人口は8人(1.8%)で、羽地間切でも士族の少ないところである。下って昭和14年には戸数57、人口257人(内男118)を数え、その60年前と比較して、戸数で3%、人口では27%の減少となっている。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和35年に209人、その後昭和41年頃からやや減少したが、復帰後はほぼ同じ規模で推移し、同60年には127人を数える。25年前に比べて6割に減ったことになるが、世帯数に大きな変動はない。

上杉県令は、明治14年国頭巡回のとき仲尾村の勘手納港から船に乗っており、「勘手納港二出ヅ。官庫瓦ヲ以テ葺ケリ。役所詰員及ビ村吏ノ奉送スル者、皆別レヲ告グ」(上杉県令巡回日誌)と答かれている。瓦葺きの官庫(定物蔵か)があったことが知れる。

明治27年の「船税及焼酎税書類」(県史21巻所収)に、勘手納港の状況を記した部分がある。勘手納港は、羽地間一切の仲尾と仲尾次の両村にわたる湾口を言い、旧藩の頃には国頭・大宜味・羽地の貢物を収納したという。港の名もあり、船舶の出入りが頻繁であるかのどとく思われるが、今はその名があるのみ。僅かに貢租を搭載して那覇に航行するにすぎない、と記している。明治26・27年に羽地湾岸で陸揚げされた品目の主なものは、焼酎・瓦・石油・大豆・茶・素麺などである。主な輸出品目は、米・薪木・松丸木・炭・藍などである。

番所のある親川から勘手納に至る道があったが、狭く急な傾斜で不便をきたしていた。そのため大正から昭和にかけて、仲尾トンネル(大正8年)・仲尾~呉我間・仲尾~仲尾次間の道が開通した。

昭和20年2月、郷土防衛隊として仲尾から10名ほどの男子が召集された。同3月以降米軍の空襲が激しくなり、周辺の防空壕に避難することが度々あった。米軍の上陸が始まり、4月4日喜納又に、さらに大石又に避難した。そこで、数人の犠牲者をだした。戦闘が治まったので6月から7月にかけて下山した。山を降りてみると、村は避難民で一杯であった。仲尾は収容所となり、3,500人程の人口にふくれあがり、臨時的に役場や警察署・小学校などが設置された。避難民は収容所生活の後それぞれの地へ引き揚げたので、もとの仲尾に戻っていった(かんてな誌)。

昭和22年に村屋をマーウィ(馬場)に移転し、同33年に新しく公民館が建設された。同31年には古我知から水を引いて簡易水道が完成し、同47年に上水道に切り替わった。同37年、アサギやヌル殿内・根神殿内・ウペーフ殿内をコンクリートで改築した。

仲尾の現在の産業を就業者の構成について見ると(同表参照)、就業者58名のうち、第1次産業41%、第2次産業14%、第3次産業45%という構成である。ここ15年の動きでは、第1次産業(農畜産業)が16%減少し、その分第3次産業の比重が増している。

農畜産業について見ると(農業基本統計表参照)、仲尾の農業は、キビー辺倒である点に特色がある。ここ15年を見ると、農家数は22戸から13戸へと減り、経営耕地面積も全体として半分以下になった。15年前はキビと水稲そして養豚で構成されていたが、現在はキビのみとなっている。昭和58年から大規模な土地改良事業が着手され、仲間原一帯の地形が一変した。かつての水田地帯は、広大なキビ畑となった。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の仲尾の御嶽として、「由来記」(1713年)に谷田之嶽(神名ニヨフモリノ御イベ)が記される。さらに中尾ノロ火神・神アシアゲがあり、そこで行なわれる祭祀は中尾ノロが司った。当時の月々の祭祀は、一覧表の「由来記」記事に見るとおりである。

現在の御嶽は、集落を離れた東方にウガンバラウタキがある。そのウタキのある丘陵の裾には、ヌルザーと呼ぶ拝所がある。南側、集落の背後の丘を越えた所がかっての村の場所で、そこにヌルドゥンチ・ニガーミヤー・神アサギ・ウペーフヤーが並ぶ。近くにはヌホーガー・ヌルガーなどの拝井泉もある。さらにその南には、ムンティヌアサギが、また東の親川とを分ける稜線上にはヒチグシクがある。ヒチグシクは、田井等・親川・川上と共に行なうウンギャミの際、重要な拝所である。神役は、ヌル・ウペーフは富里系統から、ニガーミは玉城系統から出ることになっている(国頭の村落)。

現在も続く伝統的な年中行事は、表に見るように、旧1月3日の道具ウマチー、10日のハチウガン、4月第2の子[ね]の日のアブシバレ一、5月5日のカーウガミ、15日のウマチー、6月のシチュマ、6月ウイミー、7月盆後の初の亥[い]の日に行なわれるウンギャミ、8月8日のワラビミキ、10日のシバサシ、9月9日のミャーダニなどがある。また、5年に一度、旧8月8日から11日にかけて豊年祭が行なわれる。

芸能

豊年踊りの舞台は公民館の前に造られ、公民館はその楽屋となる。

豊年踊りは5年に一度、旧8月8日を正日に3日間行なわれる。正日にはスネー(道ジュネー)でアサギまで行き、そこで2,3の踊りを奉納して公民館に戻る。戻ってまず棒を演じ、それから舞台芸能に入る。長者の大主・若衆踊。二才踊などが演じられ、最後に高平良万才、そして棒でしめる。昭和の初め頃までは「久志の若按司」「伏山敵討」「本部大主」などの組踊も演じていたが、今はしない。なお、ガクもあった。

文化遺産

仲尾には、指定を受けた文化財はないが、文化財級の「仲尾ノロ辞令書」(1622年)が伝存する(かんてな誌)。そして、金城家には模合仕明地帳(写.1802年)、屋敷地拡大願いの証書(明治22年)、家作立日記(明治38年)をはじめ、諸証書類、茶毘帳など、計19点の貴重な地域史料が伝えられる。

よく知られる仲尾トンネルは、ほとんど手作業によって大正8年に開通し、昭和14年と戦後の昭和41年に改修工事が施された。トンネルの傍らに建つ「仲尾トンネル開修碑」はさりげなくそのことを伝えている。

仲尾の字誌である『かんてな誌』は、新城信一氏らの尽力により昭和58年に出版された。すぐれた地域誌としての評価も高い。

仲尾に伝わる伝説から、次の一話を紹介する。

仲尾ウフワター

昔、仲尾ウフワターという大変力持ちで大きな人がいた。その人の鍬は幅三尺もあるたいへん大きなものだった。それで、その鍬は家に持って帰らず、ずっと畑に置きっぱなしだったが、誰一人それを盗む者はいなかったという。

また、たいへん足の速い人で、一日のうちに那覇に行って帰ってきたそうだ。おまけに行く時に恩納岳に登り竹を切っておいて、帰りにその竹を担いで帰ってきたそうだ。

ただ、主人はその大飯喰いには頭を痛めていた。ある時、主人はウフワターを殺してしまおうと考え、モーアーサーを乾燥させて、それをいためて食べさせた。モーアーサーはおなかの中で何倍にも膨れるので、ウフワターは腹を破裂させて死んだそうだ。

(昭和60年民話調査より)

仲尾の小字一覧

ウガンバラー[拝原/拝原]

ノホー[仲尾/仲尾]

マダハー咳高/真高原]

パンタ[半田/半多原]

ナハマ[仲真/仲真原]

アグンジャ[阿根謝/阿根謝原]

ムンティヌー[門天原/門天原二

仲尾には7つの小字がある。ノホーは集落の立地するところで、別名カンティナとも称される。東のウガンバラーには拝原ウタキがある。トンネルを抜けた南のパンタに古い村跡と仲尾の主要な拝所があったが、近年の土地改良で景観が一変した。

仲尾小年表

1416年 中山軍、寒汀那港をたち北山を攻める。

1622年 仲尾ノロ宛辞令書出される。

1835年 この頃、頭数134人、内勘手納に7戸47人、長浜東兼久に4戸住む。

1918年 仲尾トンネル開通。

1922年 仲尾~仲尾次間、村道として開通。

1934年 仲尾~呉我間の道路開通。

1939年 トンネル改修工事。

1947年 村屋をマーウイに移転。

1956年 簡易水道完成。

1958年 公民館落成。

1962年 アサギ・ヌル殿内・根神殿内。ウペーフ殿内をコンクリートに改築。

1963年 「勘定納会」創設。

1967年 トンネル改修工事。

1973年 上水道を引く。

仲尾次~仲尾~呉我線、県道124号となる。

1983年 土地改良事業着工。

11月 『かんてな誌』刊行。

仲尾の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

1. トシビー

1. ウンネー祭(旧11.戌)

1.28 ウニ餅(旧12.8)

▲初起し(旧1.3)

2.19 年の夜(旧12.30)

2.22 道具ウマチー(旧1.3)

▲ウマチー(旧2月)

▲クシユクイ(旧2月)

3.1 パチウガン(旧1.10)

3.7 十六日(旧1.16)

3. 清明祭

▲ハマウリー、浜焼香(旧3.3)

▲三月四度御物参(由来記)

6. アブシバレー(旧4月第2の子の日)

▲山留(由来記)

▲稲穂祭三日崇(由来記)

6.22 カーウガミ(旧5.5)

7.2 ウマチー(旧5.15)

8. シチュマ(旧6月大安)

8.10~12 六月ウイミー(旧6.24~26)

*24-アピマチウイミ、25-ウイミ、26-ヤーサグイ

8.22 タナバタ(旧7.7)

8.28~30 盆祭(旧7.13~15)

8.30 盆踊り(旧7.15)

9. ウンギャミ(旧7月盆後の初亥)

9.22 ワラビミキ(旧8.8)

9.22~25 豊年祭(旧8.8~11) *5年に一度

9.24 シバサシ(旧8.10)

10.22 ミャーダニ(旧9.9)

10.22 九月九日(旧9.9)

▲竃廻(由来記)

▲ タントゥイ