嘉陽のあゆみ・小年表

嘉陽小年表

1896年 久志尋常高等小学校嘉陽分教場設立。

1911年 4月 嘉陽尋常小学校として独立。

1934年 嘉陽産業組合設立。

高等科が併置され、嘉陽尋常高等小学校となる。

1940年 8月 嘉陽小学校に出身者等二宮尊徳の銅像を贈る。

1942年 久志村農業組合に統合。

1943年 5月 久志村で標準語が徹底している部落と評される。

1945年 中南部からの疎開者・避難民で人口急増する。

1947年 7月 巡査駐在所落成。

1951年 嘉陽福地原が三原の区域となる。

1957年 3月 嘉陽診療所開設。

7月 沖縄バスの定期運行始まる。

9月 オリンピック栗京大会の際、嘉陽に聖火宿泊する。

1964年 聖火宿泊を記念する碑を建立し、久志マラソン大会始まる。

嘉陽のあゆみ

先史~古琉球の嘉陽

嘉陽には、嘉陽貝塚と嘉陽原遺跡の二つの遺跡がある。

嘉陽貝塚は集落内に位置し、沖縄員塚時代後期からグスク時代にかけての貝塚である。沖縄員塚時代後期の上器、それにグスク時代の上器や類須恵器・中国製の青磁・染付・南蛮陶器などが採集される。

嘉陽原遺跡は、上城のある丘陵地の麓に位置し、グスク時代中期から近世にかけての遺跡である。グスク土器や沖縄製陶器が採集される(名護市の遺跡2)。

近世の嘉陽

17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」に「かやう村」とみえ、「由来記」(1713年)から「嘉陽村」と記される。

「高究帳Jでの石高は、105石余り(田101石、うち永代荒地22石余含む、畠3石余)で、水田の多い村であった。

乾隆6年(1741)久志間切の村々は疲弊極まり、王府か々麻真本と毛氏許田里之子親雲上が派遣された。久志間切は、もともと農業が不振であった。9月の暴風で五穀が悉く痛めつけられ、妻子兄弟が離散する状況にあった。

真本と許田里之子親雲上は、11月9日久志間切駅(番所)に着くと、検者や各村頭を集めて妄用の費を禁じ、農業に努めるよう指導した。

次第に、村の人々は家を興していった。ところが、嘉陽・有銘。平良の3カ村はもっとひどい状況にあった。真本だけが後々まで残り、村の復興に貢献した(那覇市史家譜資料3首里系所収、麻姓家譜西原家)。

御法度の諸本を盗み取ったり、密々商売する者がいたりしたので、乾隆13年(1748)津口勤番を国頭間切の三カ村、久志間切のニカ村に詰めさせ、船の出入りを改めさせた。乾隆16年(1751)に、これまでの勤番に代わり、山率行筆者を増やし船改めも兼務させた。検者や在番の所管となる村もあったが、嘉陽は安部詰山筆者の所管となった(地方経済史料)。

蔵豊3年(1853)にペリー提督一行の一部が、舟二艘で与那城間切の伊計島を経由して辺野古崎を通り、浦々の水計(測量)をしながら久志間切にきた。天仁屋村帳内の饒波原の浜に舟を着け、布屋(テント)を張って止宿をする模様であった。諸事を取り計らうため、間切の役人たちが早速現場近くの嘉陽村に差越した。後から通事も遣わし、厳重な監視をさせたが何等差し障りのある行動はなかった。翌日には、国頭間切の方へと発って行った(ペリー来航関係記録1、沖縄県史料所収)。

近現代の嘉陽

近代の嘉陽の人口を見ると、まず明治13年には戸数47、人口244人(内男122)である。同36年には385人(内男204)で、この間に人口は17倍に増えた。同年の平民人口253人に対して士族人口は102人(29%)で、士族人口の多い村であった。士族が多く住んだ嘉陽福地は、後年三原に含まれた。

明治26年国頭地方を巡回した笹森儀助は、嘉陽村の仲村渠加勢方に投宿し、ノロ所蔵の古い曲玉数十個をみている(南島探験)。明治29年、幕陽に久志尋常高等小学校の嘉陽分教場が設置された。同43年には、安部・嘉陽・天仁屋・嘉陽福地を学区とする嘉陽尋常小学校が分離独立した。大正9年高等科の設置に伴い、名称も嘉陽尋常高等小学校となる。戦時体制下に入った昭和16年に嘉陽国民学校と改称された。その時、天仁屋分教場が独立して天仁屋国民学校となった。戦後昭不日27年に嘉陽初等学校から嘉陽小。中学校と改称した。同47年に嘉陽・天仁屋・三原・久志の小学校と併置されていた中学校が、汀間に新しく久志中学校を新設し統合したため、嘉陽小学校となる。

昭和9年に産業組合が設立認可されたが、同17年には農業組合法によって久志村農業組合に統合された。

嘉陽の戦後の人口の動きを見ると、収容所時期、嘉陽も中南部などからの疎開。避難民であふれていた。その時期を過ぎた昭和21年1月の人口は1,646人を数えた。中南部の人々がそれぞれの故郷に帰付して、地元も落ち着きを取り戻した翌22年10月には戸数113・人口487人となった(久志村誌)。

その後、昭和35年以降の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和40年頃に大きく減少し、あと徐々に減少傾向が続いて、昭和60年現在138人を数える。25年前に比べると、3分の1近くに減ったことになる。世帯数は、この間ごくわずかずつ減少し続け、現在59世帯である。25年前に比べると、4分の3になった。

昭和32年からバスの定期運行が始まり、便利になった。巡査駐在所や診療所が置かれたこともあるが、今では廃止されている。

昭和39年の東京オリンピックのとき、嘉陽が聖火の宿泊地となり「聖火宿泊碑Jが建立され、それは嘉陽の人たちにとって記念すべき出来事であった。

出典:「わがまちわがむら