カヌシチャ

カヌシチャ

集落の西、汀間境に近い浜がカヌシチャである。カヌシチャ(川の下)の名のとおり、戦前アダン林とモクマオウが混じる浜に、背後の山から小さな川が流れて、その周囲にわずかな水田があった。その小川を境に、東に三戸(少し上がった場所にナグヤー、下にクンガンヤー、今帰仁ヤー)の農家、西に金城ジラー(ミーガニクヤー)、玉城三良(ウフグッチーグヮー)、篤農家の外間家の三戸があった。金城、玉城両家は糸満出身のウミンチュ、外間家は東海岸浜比嘉島の浜出身で、畑や水田をもち、瀬嵩の酒屋から一斗ガーミに入れて酒を買い、量り売りをした。

玉城家は次のような漁をしていた。①フカ漁、②網漁、③ヘーナー(延縄)漁、④一本釣りのほか、糸満のシンカがやってきて⑤パンタタカー(追い込み)漁と⑥サザエ採集をおこなっていた。①はヒートゥ(イルカ)の頭や皮をわざわざ腐らせたエサを鋼の釣り針につけて仕掛けておき、一日おきに見回った。③では百本ほどの釣り針を十~十二尋の綱につけて釣る。

⑤では、糸満からサバニ四、五隻で三、四十名が組になってやって来る。大部分は若いヤトゥイングヮー(雇い子)たちで、なかには捕った魚を売り歩くカミアチネー(行商)要員として女三、四名がいた。パンタタカー漁は八月十五夜あと~正月前である。このときサザエ採りもおこなった。この集団はカヌシチャの糸満出身者を頼ってきた親戚や知人たちで、玉城家のメーヌヤーグヮー(離れの小屋)や浜に帆を掛けて宿泊した。玉城家では飼っている豚(二、三頭)のエサに残飯が多く出るので喜んで泊めた。糸満シンカは五月四日、八月十五夜、正月の三回だけ糸満に帰り、長くて十日もしないうちに戻ってきた。カヌシチャに寄宿する糸満集団に対して、安部ムラから「チグチデー(津口代。入漁料に相当)」を取りに来た。

玉城家では捕ってきた魚を三原、汀間、安部に売りに行くが、掛け売り、現金のいずれかで、ほぼ半々だったという。売りあげは漁に協力した人たちに配当した。サバニで捕った魚を久志ムラ(ではよく買ってくれた)まで持っていき、田倒し(タードーシ)イモと交換することもあった。(魚一斤十銭、イモ一斤一銭という相場だったという。)ソーメンや煙草は三原まで行って買った。魚がとれれば暮らしに困ることはなかったが、冬の海が長期間しけると漁ができず、食べるものに困った。

カヌシチャだけで四月アブシバレーをおこなった。浜に出て帆の陰で食事したりして遊んだ。六月二十六日には、安部でカヌシチャのサバニを借りてハーリー競争をした。また、浜での綱引きには、カヌシチャは本来西でひくが、東の人数が少ないため東でひくこともある。カヌシチャからは多くて七、八名、普通で三、四名参加した。

出典:「民俗3