豊原のあゆみ・小年表

豊原小年表

1880年頃 首里・那溺からの移住者が屋取を形成。

1901年 久辺小学校設置。

1942年 行政区豊原となる。

1945年7月 各地からの避難民多数集まる。ミアランシンと称される。

1947年3月 もとの豊原に改称。

1951年4月 久志村の字となる。

1958年 キャンプ・シュワーブ基地建設にともない商店やバーが増える。

米軍との関係で養豚・養鶏業も始まる。

1960年5月 久辺郵便局設置。

1972年4月 久辺幼稚園、久辺小学校に開園。

5月 久辺小中学校分離。

豊原のあゆみ

豊原は、昭和17年に字久志の一部を割いて行政区として独立した。もとはアガリバル(東原)やメーヌウイバル(前の上原)と呼ばれていたが、戦後になって三つの小字名を付けた。

豊原は、明治12年の廃藩置県後に首里や那覇方面から移住してきた人たちによって形成された屋取集落である。

明治28年に久志村に久辺小学校が創設され、同34年に現在地に新築・移転した。大正8年に高等科が併置され、久辺尋常高等小学校と改称された。昭和16年久辺国民学校となり、沖縄戦で全焼した。同20年に初等学校を開設し、同23年に中等学校が併置され、久辺小中学校となった。同47年には、小学校と中学校が分離独立し、現在に至る。久辺(くべ)は、久志の「久」と辺野古の「辺」をとって付けた名称である。

戦後一時期、米軍の隊長の名にちなんでミヤランシンと呼ばれたが、昭和22年に再び豊原に戻した。同33年に、辺野古大浦崎にキャンプ・シュワーブ米軍基地が建設されると、各種の業者が移ってきた。米軍基地との関わりで商業が成り立っていたが、復帰後下火になった。

出典:「わがまちわがむら