瀬嵩ムラ集落内の風景

瀬嵩ムラ集落内の風景

ムラの発祥地は、現集落東側の背後にあるクガニムイの山裾、マツンギャマタ(マチンジャー)にあったと伝えている。かつてお椀を伏せた形の小山があり、その下に広さ六~八畳の洞穴があり、なかにムラの祖先の骨ともいわれる人骨があったという。現在、そこは「高山グシク」(組踊「高山敵討」の舞台とみなされ、時折拝みに来る人がいる。)というムラの拝所になっている。

現集落がある低地は昔浅い海で、瀬嵩ウタキの森は小島だったと伝えられる。のちに触れる集落北西部のニガミ殿内やアサギ、金丸殿内の一画から現集落がはじまり、アガリヤシキはムラで最初につくった屋敷という。この一帯だけが道幅も狭く、不井然形区画である。現在集落の中央で東西にのびる道は間切時代の馬場(ウマバ)の跡で、かつてここが集落の南端だった。

集落中央の道は西のクィリジョーグチから馬場を通り、東の瀬嵩橋に至り、村役場をはじめとする公共施設がその道沿いに集まっていた。かつての馬場は長さ120~130メートル、幅は7、8メートルから広いところは10メートルあった。馬場の両側は桑畑で、久志村の養蚕所も集落内にあった。現集落の場所はかつて浅海だったというように、2~3メートル掘ると、サンゴ砂利や巻き貝が出てきた。そのため各家は井戸を掘っても用水にしか使えず、飲料水は古いイズミガー(後出)まで汲みに行った。家では用水と飲み水のふたつの水甕が置かれていた。

戦前のムラヤーは茅葺きだったが、戦火で消失した。共同売店は戦前にはなく、戦後になって区事務所との兼用でつくられた。マチヤグヮーは戦前、日用雑貨の仲宗根屋と酒・タバコを売る金城屋の二軒があった。金城屋の一部を借りて産業組合(現農協の前身)もできた。また、集落のほぼ中央からクシヌカーへの道の西側に二軒のサーターヤーが並んでいた。動力は馬で、共同使用だったが、のちに一軒に統合された。

クガニムイの拝所近くには、仲地家の藍壺があった。比嘉門中の仲地家は戦前まで「瀬嵩仲地」、仲地ウェーキとよばれ、山原でも有名な土地持ちだった。山原船の船持ちと瀬嵩の女性との子孫といわれている。明治半ばにつくられた赤瓦家(六十坪)は立派な石垣に囲まれ、山原船のティンマ舟がクシヌカーを上り、仲地家の裏門で荷物を積み下ろした。また、集落周辺の水田のほぼすべてが仲地家の所有だったという。

ムラのなかで人が亡くなると、その棺はすべて家から西への道を通って出し、集落西端の道から墓にむかった。絶対にウタキ前の大通りは通らない。クィリジョーグチでガンを下ろし、シマ別れをした。ガンを担ぐ人はムラから二人、親戚から三人が出た。墓地とガンヤーは集落西のナービグーの山の下にある。ガンヤーは川を越えたところに、墓地は川の両側にある。これらは個人墓である。このほかに、二見にシダキバカ、アカンバカという門中墓があるが、そこまでガンを担いでいくのは大変な重労働だった。人が亡くなると三日間ムラ忌みをし、三線など音曲を禁じた。瀬嵩ではワラビ墓の話は聞かない。

集落内の地域区分は明確ではないが、馬場を境にメーグミ、クシグミと区別して呼ぶ場合がある。また、十一、十二月におこなわれた青年会による「ヒーゲーシ(火返し)」の行事で、集落を東、中、西にわけてそれぞれ「アガリンバハリ」「ナハンバハリ」「イリンバハリ」に「ヒードーイ」と交互に呼びかけ、「ホーハイ、ホーハイ」と叫びながら西はずれの入口までヒーダマ(火玉)を追い払った。