嘉陽・ムラの風景

嘉陽・ムラの風景

嘉陽は次の小字からなる。アガリ(東)、イリ(西)に集落があり、後方のハヨーバロー(嘉陽原)は別名ウフブックと呼ばれ、広大な水田地帯である。ヤマダバロー(山田原)、ハータバロー(川田原)、ソウズバロー(ソウズ原)、ギキバロー(ギキ原)、ピジャーバロー(比嘉原)は山地であり、山間のマタは水田として利用されていた。マンカバロー(マンカ原)は畑地として利用されるとともに集落の墓地がある。プクヂバロー(福地原)は山奥で、三原・天仁屋との境界である。カヨウフクチ(嘉陽福地)はもともと嘉陽の範囲内であったが、昭和二十二年に三原に編入された。カヨウフクチには嘉陽の耕地があったが、三原への編入の際にすべて売ってしまったという (カヨウフクチが嘉陽に属していた頃はカヨウマタ(嘉陽又)という小字名であった) 。

嘉陽集落は海に面しており、周囲は西のマンカムイ、東のフガッチャムイ、北はナーホー、ターグシクヤマなどの山々に囲まれている。集落北東にはウイグシクヤマがそびえ、山頂には集落の御嶽であるウイグシクの拝所が鎮座する。ウイグシクは特に神聖な場所として人々に認識されており、嘉陽の人々はその昔、ウイグシクヤマの中腹から現在の位置に移り住んだとの移住伝説が残っている(先に挙げたマンカ、フガッチャという二つのムイの名の由来はウイグシクを中心として真ん中と後にあるのでマンカ(真ん中)、フガッチャ(後?)になったのではないかと話す者もいる)。神聖な場所であるという理由で、ウイグシクヤマでの木々の伐採は禁じられていた。

集落前方にはアダン林をはさんでメーバマと呼ばれる砂浜が広がり、キョウ、ギヌマ、タッチュルなどの地先の岩をのぞむことができる。なかでもキョウは聖なる岩といわれ、カミがウイグシクに訪れる際にこの岩で一息つくといわれている。また、アブシバレーの際にノロが芭蕉の舟に虫を乗せてキョウに渡り、そこから海に虫を流したという。

集落の北方の山々にはアミソマタ、ナクヮガチマタ、ヤマダマタの三つのマタがあり、それぞれのマタからアミソ川、ナクヮガチ川、ヤマダ川が集落に流れている。この三つの川はウフブックで一つになり、ウッカー(大川)あるいはナーツミガーと呼ばれる。ウッカーの河口付近には戦後嘉陽橋がかかり、そのあたりではウッカーはンスアライガー(衣洗い川)と名を変える。東方のフガッチャムイにはソウズマタがあり、ソウズ川が流れている。集落西のハンサ山の裾には墓地が広がる。戦前は人が亡くなるとガンヤーから龕(がん)を持ち出し、死者を運んだ。現在の嘉陽橋付近で一度龕を置いてシマワカレをして浜に降り、川を越えて墓地に行った。龕は戦後「アメリカー」によって奪われたといい、それからは龕を使わず、そのまま死体を入れた棺を背負って墓地まで運んだ。墓地には集落共有のムラ墓があり、戦前はこのシルヒラシ墓に遺体を置き、旧七月七日にシンクチ(洗骨)を行った後、アジバカ、ナドーハ、ハーバタと呼ばれる三つの墓のどれかに門中ごとに骨を納めたと言われている。戦前はこの墓に所属する門中では旧の一月十六日にそれぞれの墓を拝んで、浜に下り、食事するジュウロクニチジューコー行事が行われていた。

ハンサ山の中にはワラビ墓があり、七才以下の子供が死んだ際にはソーメンの箱の中に子供の遺体を入れて葬った。子供の遺体は一定期間経つと洗骨され、その家の墓に葬られる場合とそのままにされる場合があった (前者はユタの影響によるものではないかという話も聞く。)。戦前はそこに生えている竹を何本か縄で結んで、その下に遺体を埋めて目印とした。戦後はセメントを上に塗り、そこに誰某の墓と名を書いておいて、再び掘る際の目印にしていたという。安部との境のギミ崎にはフルバカと呼ばれる洞窟墓があるが、その由来は明らかではない (戦後しばらくして大学の調査で墓の場所が分かったという。それまでは場所も確かではなくギミ崎の方向を遙拝していたという。この墓はアジバカと呼ばれることがあるが、墓地内のアジバカとの関係は不明である。)。旧一月十六日と清明祭にはフルバカの方角にタンカ(ウトゥーシ)するという。

ハンサ山からさらに西方にはマチバマ、サーバルと呼ばれる畑地が広がり、パマイタラシキと呼ばれる御嶽がある。この御嶽には首里から伝えられたミカネ(御鐘)があり、御願の対象になっていた (5このミカネ(御鐘)は戦争後の混乱の中で失われてしまったという。)。さらに西方にはハヨウマタ、ギキマタの二つのマタがある。

集落は碁盤目状で、東からそれぞれヌンドゥルチジョウグチ、ナハジョウグチ、イリジョウグチと呼ばれる縦の道で四つに分けられ、東から一班~四班と区分されている。また、三班・四班をイリ、一班・二班をアガリと分けることもあり、これは小字のアガリ・イリに対応する。集落から浜に下りる際はこの三つの道を使った。道の出口はシマハスジと呼ばれ、旧十二月の師走正月(鬼餅)の際に豚の骨を十字に吊し、悪いものが入ってくるのを避けたという。集落の中心でイリジョウグチとヌンドゥルチの前を通る横の道が交差する交差点は、ウプアジと呼ばれる。

集落前方にある県道は戦前、幅1メートルくらいの細い道で、嘉陽から安部に行く際はまず浜に下り、川を越えて嘉陽と安部の境のギミ崎まで行き、岬を横断して安部まで行った。また、嘉陽から天仁屋まではウイグシクからヤマダマタを通っていく山道で、現在は舗装されている。嘉陽から三原はアミソマタの入り口からウルフ山を通る山道だったが、大正時代にマタに沿う道ができた。以前は、名護の町に行くときはまず三原まで行き、そこから名護市街まで出ていった。この三原への道は非常に険しく、木や草の根を掴みながら山を登るような道だったという。

出典:「民俗3 民俗地図