山入端のあゆみ、小年表

山入端小年表

1737年 古山入端原から安和兼久に移る。

1876年 スンジャガーの湧水を潮平原に引き開田を試みる。

1879年11月 比嘉栄仁地頭職に任じられる。

1914年1月 山入端・安和青年会、屋部境まで道路を開削する。

1923年 山入端鰹漁業組合設立、鰹漁に乗り出したが翌年9月に解散。

1933年5月 産業組合設立。

1939年10月 山入端信用販売職買利用組合解散。

1942年 東猫川原が行政区勝山となる。

1943年 阿楚原が行政区旭川に、内山原が行政区中山となる。

1978年1月 山入端神社完成。

出典:「わがまちわがむら

山入端のあゆみ

先史~古琉球の山入端

現在、山入端地内では遺跡が確認されてない。また、故地である古山入端原でも遺跡は確認されてなく、いつ頃からその地に住みついたのか分からない。

近世の山入端

近世の山入端は、名護間切に属し、「絵図郷村帳」と「高究帳」には、「山によは」と見え、「由来記」(1713年)には「山饒覇村」とある。「高究帳」に見る石高は、安和と一緒で18石余り(田14石余、うち永代荒地5石余含む。畠は4石余)で、名護間切では一番石高が少なく、また畠の比率が高い村であった。

山入端が、故地である古山入端原から現在地に移ったのは、1737年のことである。「球陽」の尚敬王24年の記事「察法司、諸郡の山林を巡見して、村を各処に移す」の中で、その村の移動のことが述べられている。それによると、当時の国師蔡温が、山林保護のために、名護山林内にあった山入端村を安和兼久に移したというのである。また、言い伝えによると、初めは屋部ウェーキの岸本親雲上の計らいで、名護兼久にその移住先を定めたが、住民の反対にあった。次に宇茂佐兼久を選んだが、そこでも住民に反対され、やっと落ち着いた所が現在の安和兼久だという(名護六百年史)。

ところが、その移住地は水利が悪く、田を造ることができなかった。ただ、集落の東、潮平川原の海岸には潮平川という湧水があった。1875年、山入端と関わりの深い世冨慶の岸本寿照が地頭代に就任した時、その潮平川の湧水を利用し、潮平川原の低地に田を造る計画を立て、翌年小規模ながら田を見ることができた。しかし、当時の技術では水位の調整やダムの水漏れを防ぐことができず、やがて荒廃していった(前掲書)。

1813年、屋部村の地船が北谷沖で遭難しているが、その船が出帆したのが潮平川原の前のアサシキナという海岸であった。屋部の遠浅の海岸に比べ、その海岸は深く船が着けられるようになっていた。また、通難した船には山入端村の大文子・仲村渠仁屋が乗船していた(前掲書)。

近現代の山入端

山入端の近代の人口を見ると、まず明治13年には戸数103、人口628人(内男325)である。同36年には1,173人(内男570)を数え、名護間切11力村で第4位の人口規模に達するとともに、この間人口は1.9倍も増えている。また、同年の平民人口947人に対して士族人口は224人(19.1%)である。

大正3年、その頃山原の各地で、青年会による道路工事が行なわれた。山入端でも隣の安和青年会と共に、屋部境までの道路を開削した(戦前新聞集成2)。

明治の終わり頃から盛んになった鰹漁業の影響で、大正12年には山入端にも鰹漁業組合が設立された。船は、18t・30馬力の「宝恵丸」一隻であった。同組合は業務不振のために翌大正13年に解散した(名護六百年史)。昭和8年、沖縄振興15カ年計画によって農村振興策が講じられ、同年山入端にも信用・購買・販売・利用の4種事業を兼営する産業組合が設立した。同組合は昭和14年名護町産業組合に吸収されるまで続いた(前掲書)。

昭和17年、山入端・安和にまたがっていた猫川原が独立し、勝山区となった。翌18年には山入端・屋部などに属した山間部の集落が、中山区・旭川区として独立した。

昭和20年4月、屋部・宇茂佐の海岸から上陸した米軍マリン部隊は、三隊に分かれて本部半島に攻め入った。山入端住民は、部落の奥、阿楚原の山中に隠れていたが、4月初旬には捕えられ、収容所へ送られ、帰村したのは11月だった(わが村十年の歩み)。

出典:「わがまちわがむら