大浦のあゆみ・小年表

大浦小年表

1719年 番所を久志村から瀬嵩村に移したさい、大浦村屋に仮番所が置かれる。

1880年頃 首里・那鞘。泊・中頭・本部などから移住した士族が道股や大浦股などに屋取を形成。

1911年 美里校の旅行生徒大浦湾を渡舟中に遭難、死者行方不明7名。

1921年 瀬嵩と世冨慶間に郡道開通。

1927年 大川・二見が行政区として独立。

1945年 米軍、対岸の大浦崎に上陸しこの地域一帯を占領。山中に避難していた住民や中・南部の疎開者が収容される。

1947年9月 大浦公民館が新築落成。

1951年1月 大浦湾に海人草養殖工事着手。

1953年12月 大浦・二見の護岸工事竣工。

1954年12月 大浦謹岸工事竣工。

1956年1月 大浦・大川の護岸工事竣工。

10月 大浦公民館落成。

1958年8月 大浦水道工事竣工。

1960年5月 チリ地震津波で橋や水田に大きな被害あり。

1964年3月 大浦橋完成。

1972年 大浦湾埋立て構想出るが立ち消え。

1982年5月 大浦農村集落センター落成。

出典:「わがまちわがむら

大浦のあゆみ

先史~古琉球の大浦

大浦には、先史から古琉球にかけての遺跡は、今のところ確認されていない。

近世の大浦

近世の大浦は、1673年まで名護間切の村であった。1673年に久志間切が新設され同間切の村となった。17世紀中頃の「絵図郷村帳」や「高究帳」に「おほら村」とみえ、「由来記」(1713年)には「大浦村」とある。

「高究帳」には、「おほら村」と「せたけ村」が併記され、両村合わせた石高は168石余り(田149石余、うち永代荒地66石余を含む、畠19石余)である。永代荒地の石高は、「てま村」の68石余に次ぐものである。

「正保三年琉球国絵図帳」(1646年)に、「東海道」(東宿)の所で「金武間切さかいより名護間切之内大浦村壱里山迄弐十町」と記し、この絵図に大浦村地内に一里塚が記されている。

康照26年(1687)に久志間切の番所が、瀬嵩村に移転することになった。瀬嵩村に番所が新築されるまで、大浦村のムラヤー(村屋)に仮設され、仮番所と呼ばれたという(久志村誌)。

御法度の諸木を盗んだり、内密に商売する者がいたりしたので、乾隆13年(1748)に津口番を久志間切のニカ村と国頭間切の三力村に勤めさせ、船改めをさせた。乾隆16年(1751)に、検者や在番の所管とし、船改めを強化した村もあった。大浦村は、辺野古・久志の両村同様検者の所管とした(地方経済史料)。

近現代の大浦

近代の大浦の人口を見ると、まず明治13年には戸数76、人口339人(内男164)である。同36年には497人(内男240)で、この間に人口は1.5倍も増えている。同年の平民人口301人に対して士族人口は137人(31%)で、士族人口の割合がやや多い村であった。先の人口の増加は、この士族の移住に伴ったと思われる。士族の居住区域を中心に、後年二見・大川が成立する。

明治12年の廃藩置県後になると、首里・那頒・泊や中頭地方や今帰仁や本部間切などからの士族が、大浦村地内のミチマタ(道股)やウフマク(大股)に、またスック(楚久)とシジンダ(杉武田)に寄留し、屋取集落を形成した。昭和2年に行政区として大川と二見が大浦から分離した。地籍字としては、昭和26年に分離した。

明治33年に巡査駐在所が設置された。それは、久志間切で最初であった。明治35年には瀬嵩村に移転した。

久志大浦と西海岸への名護東江をつなぐ山道は、オバンクイジ(御飯食路)と呼ばれ険しい道であった。大正3年に久志村青年会は、瀬嵩から大浦を経て名護村世冨慶に至る路線を改修するために踏査を済ませた(戦前新聞集成2)。それまで南への行路は河川があり、渡舟で渡って楚久曲の踏道をたどって行った。また、東方の瀬嵩へは山道を登って行った。その道は、大正10年に郡道として開通し、後に県道(現在の県道70号線)となり、大浦橋が架設され道幅も拡張整備され今日に至る(久志村誌)。

戦前まで、大浦湾は薪や炭、それに木材の積み出し港として、与那原方面との往来が頻繁にあり賑わった。

昭和20年4月、米軍は大浦崎(辺野古崎)に上陸した。山中に避難していた地元住民や中南部からの疎開・避難民は、7月以降近くの各字に収容された。久志村は、北の瀬嵩地区(市)と南の久志地区(市)に分けられ、大浦は瀬嵩地区に含められた。収容所生活時期、大浦も中南部などからの疎開・避難民で人口は大きく膨れ上がった。人々がそれぞれの郷里へ帰村を始めていた昭和21年1月には1,089人を数えた。避難民の人たちが既に引き揚げ、地元も元の状態に戻った翌22年の10月には、59戸・276人となった(久志村誌)。

その後、昭和35年以降の人口の動きは、推移グラフに見るように、同年47世帯・223人である。人口はそれ以降僅かずつ減少傾向となり、昭和60年現在116人を数える。25年前に比べると、約半分に減ったことになる。世帯数は、この間わずかの増減があったものの、現在は25年前と同数の47世帯である。

出典:「わがまちわがむら