屋部地区

屋部地区のあゆみ

屋部地区に、いつ頃から人が住みついたかよく分かっていないが、宇茂佐・屋部・安和には、沖縄貝塚時代後期からグスク時代にかけての遺跡が見つかっている。その後、グスク時代から近世の遺跡として宇茂佐古島遺跡があり、そこは宇茂佐・屋部の故地だとされる。

近世の頃、現在の屋部地区は名護間切に属し、「絵図郷村帳」には宇茂佐・屋部・山入端・安和の村名が見える。その頃、それらの村の祭記は屋部ノロが管轄した。1737年には、蔡温の山林保護の政策によって、現在の中山の所にあった山入端村が現在地に移された。

明治41年、島嶼町村制により名謹間切から名護村の内となり、大正13年には町制施行により、名護町の内となった。昭和17年に勝山、昭和18年に中山・旭川が分区独立し、現在の7区となった。

戦後すぐ、その7区から戦災復興を早く進めるには分村するほかないという意見が強く興り、大きな議題として論議された結果、名護町議会で満場一致で承認され、昭和21年5月20日、沖縄民政府より分村の許可がおりた。

昭和24年には北部農林高等学校が宇茂佐に移転された。同30年代後半期からは、パインプームの中で、屋部地区の丘陵地、特に中山を中心とする地域では開墾が急速に進められ、広大なパイン畑が造成された。

西の安和・勝山区域では、昭和30年代後半から古期石灰岩の砕石とセメント利用が進められ、近隣字の人々の就業の場となるとともに、山の姿は大きく変容した。

東の宇茂佐区域では、昭和50年代に入って市営住宅や諸福祉・療養施設、また土地区画整理事業が実施され、名謹市街地に連続する新しい街が形成されつつある。

出典:「わがまちわがむら

屋部地区小年表

名護市地域史料目録:屋部地区