振慶名

振慶名区の現況

世帯数:73世帯 人口:287人 面積1.11k㎡

振慶名は、方言でブリキナあるいはブリキナーと呼ばれ、旧羽地村の中央部に位置する。ブリキナの意味は、故地(今帰仁村湧川地内)が古期石灰岩の群[ブリ]立っている所で(ブリク)、そこを開墾(キナ)したことに因むとも解釈される(宮城真治:沖縄地名考)。

サダー(佐田)やヤマガー(山川)は、米所として知られたパニジターブックヮ(羽地田袋)の一画をなし、一部水田が残る。振慶名の区域は、南の山手の方へ細長く延び、集落の西側のヤマダーからサダーにかけて金川が流れる。

集落は、小字ブリキナー(振慶名)が中心で、丘陵地にある御嶽を背に麓から南西の方に碁盤目状に形成し、さらに水田のあったサダーまで広がる。

振慶名のあゆみ

先史~古琉球の振慶名

振慶名は、もとは今の今帰仁村湧川地内にあった。古琉球の振慶名については、故地の村跡を見ていく必要があるが、今のところ当時の遺物は採集されていない。

振慶名が移動してきた現在地には、振慶名遺物散布地があり、グスク時代から古琉球にかけての遺跡である。振慶名が移動してくる以前から人が住んでいた地域で、遺跡は公民館の南側に広がり、土器片や中国製染付・沖縄製陶器などが採集されている(名護市の遺跡2)。

近世の振慶名

17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」には、「ふれけな村」とあり、今帰仁間切に属した。「高究帳」の振慶名村の石高は、僅か10石余り(うち田8石余、畠1石余)であった。それは今帰仁間切にあった故地での石高である。

1690年頃羽地間切と今帰仁間切の間で村の組替があったとみられ、振慶名村は今帰仁間切から羽地間切へ管轄が移された。羽地間切の村となった振慶名は、乾隆元年(1736)に場所を移し現在地に村をつくった。村移動の理由は、諸郡の山林を巡視してみたら、羽地山地内に村が一カ所に集まり、農地が狭くややもすると山林を焼き払って農地にしてしまう。また、今帰仁間切は山林が甚だ狭いので山林外に移動させ、そこは今帰仁間切に属させたという(球陽)。

アッペフガー(大屋子泉)には、故地から運んできたという石がはめ込まれている。今帰仁村の湧川地内にフルブリキナ(古振慶名)の地名が残り、香炉が置かれ、今でも拝みにくる人たちがいる。

羽地には乾隆7年(1742)の「羽地間切針竿帳」があり、振慶名が移動して数年後の記録だが、一部振慶名にもかかり、当時の耕地の分布と土地保有の状況を知ることができる。

近現代の振慶名

近代の振慶名の人口の動向をみると、まず明治13年には戸数39、人口200(内男104)である。同36年には318人(内男161)で、この間人口は1.6倍に増えた。また、同年の平民人口278人に対して士族人口は40人(12.6%)で、羽地間切ではやや士族が多いところである。下って昭和14年には戸数59、人口270人(内男128)であり、その60年前と比べて戸数で1.5倍、人口で1.4倍の増加をみた。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和35年に312人、その後昭和41年から少し減り、同50年代前半には増加傾向となり、またやや減って、昭和60年には287人を数える。25年前に比して8%減少している。

明治39年と同43年の羽地大川の大洪水は、下流域の村々に大被害をもたらした。昭和13年に羽地大川の河口を仲尾次につけ替えたので、振慶名は我部祖河川の流域となった。

大正2年の新聞記事に、振慶名の佐田原に甘蔗(キビ)の県立苗圃地があり(仲尾の新城徳助氏所有)、総面積3,162坪を84区に分けてあった。土地の肥痩は一定ではなく、しかも多湿の土地であった。大正2年に第1回目の耕鋤[こうじょ]に着手し、排水溝を設けたり、キビの挿植えを行なった。複式栽培法(一名島田式)で挿植えを行なうと、反当5,225本を挿植えすることができた。従来の挿植え本数の約2倍となり、分けつは2万本にも達した。一方、湿田の排水工事を行なった結果、50町歩余りが悪田から良田と化した(戦前新聞集成2)。

昭和12年に村の移転200年祭を行ない、ニーガミヤ(根神屋)を建設した。昭和22年に振慶名と伊差川、それに田井等にまたがる地域に行政区山田が成立した。

振慶名の産業の現況を就業者について見ると(同構成表参照)、就業者124名のうち第1次産業38%、第2次産業15%、第3次産業48%という構成である。ここ15年、第1次産業(農業)は次第に少なくなる一方、その分第3次産業(特にサービス業)の比重が大きくなった。

3分の1を占める農業について見ると(農業基本統計表参照)、振慶名の農業はキビが重要作物であるが、水稲をはじめパイン・施設園芸・野菜・その他の作物もそれぞれの比重を持っている点に特色がある。ここ15年、農家数は主として専業農家が少し減少している。また、経営耕地面積は全体として3分の2に減ったが、作物別ではパインと水稲の減少が大きい。昭和60~61年度にかけて丘陵地一帯で土地改良事業が進められ、大区画のなだらかなキビ畑ができた。

畜産は、昭和50年代に養豚が盛んであったが、最近は飼養頭数が激減している。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の振慶名の御嶽として、「由来記」(1713年)に振慶名之嶽(神名ナミアラサキノノロ御イベ)が記され、我部ノロの管轄となっている。神アシアゲは記されていない。なお当時は現在の所ではなく、前に述べたように、今の今帰仁村湧川地内に振慶名村があった。

現在の拝所は集落の北東側に多い。公民館の北の丘の上にウタキが、東の丘陵地すそにアガリヌヘーが、すぐ西隣りに神アサギがある。また、神役であるニガミ火神とアッペーフ火神は、それぞれニガミヤー・アッペーフヤーに祀られている。さらに拝井泉として、ニガミガー・アッペーフガーがある。神役のニガミはメーガーヤーから、アッペーフはアッペーフヤーから出る(国頭の村落)。

現在も続く伝統的年中行躯は、表に見るように、旧1月10日のハチウガン(初御願)、4月最後の子[ね]の日に行なわれるアブシバレ-、5月15日のウマチー、6月のヒチュマと六月御願、8月7・8日の豊年祭、9月9日のクングヮチクニチ、11月のウンネーなどがある。

芸能

豊年踊りは、1年おきに旧8月7日と8日に行なわれ、その仮設舞台は神アサギの下に公民館に向けて造られる。8日の正日には、道ジュネーで部落内を回った後、公民館に戻って、まず棒が演じられる。その後、奨者の大主をはじめ上り口説・松竹梅などの踊りがあり、寸劇もやる。最後にもう一度棒を演じてしめくくる。踊りは青年会、棒は向上会が中心となる。

エイサーは、最近中部のエイサーを導入し、青年によって演じられている。

文化遺産

振慶名には指定された文化財はない。

戦後まで、振慶名の集落の東はずれ、ちょうど田井等との境に「江・田井等原」と刻まれたハル石があったというが、今は斜面が崩されて現存しない。

地域史料についても、これまできちんとした調査がなされておらず、未確認である。

振慶名の小字一覧

ブリキナー[振ケ名/振慶名]

ヤマガー[山川/山川]

サダー[佐田/佐田]

ヤーマダー(マンティナ)/(サガヤー)[山田/山田]

クシマ/プシマ[越真/越真]

ナカンタキ[仲嵩/仲嵩]

振慶名は6つの小字からなる。集落はブリキナを中心に、サダーに広がる。ヤマダーは行政区山田の区域であるが、田井等山田と区別して振慶名山田とも言う。元はマンティナと呼んだそうだ。南のナカンタキは山林であったが、1960年頃村から払い下げられた所は主にパイン畑となった。

振慶名小年表

1736年 蔡温の山林政策により今帰仁呉我山から現在地に移動する。

1739年 跡地に湧川村を新設。

1844年 みや川山の開地作職を願い出る。

1910年 羽地大川の決壊は振慶名にも大損害を与える。

1913年1月 仲尾の新城徳助所有の佐田原の水田3,000余坪を県立の甘蔗苗圃地として使う。

1925年 羽地小学校分教場を振慶名に設置。

1933年 田井等・親川・仲尾と連合し産業組合を設立。

1937年 部落移転200年の記念事業として根神屋を建設。

1941年 産業組合解散。

1954年 川上ほか3字と連合して中部農協を設立。

振慶名の行事・活動一覧

昭和60年1~12月

1.17 ムーチーウグヮン(旧12.8)

2.18 ハチウグヮン(初御願、旧1.10)

▲ムギヌプーウマチー(旧2月)

▲ムギシツマ(旧3月)

4.9 評議員会*本年はあと4回開催(5,6,8,12月)

4.11 戸主会*本年はあと3回開催(5,6、12月)

4.27 農事視察(向上会主催)

4. 新入児童合同祝い

5.4 区民運動会

5. アプシバレー(旧4.最後の子の日)

6.11 水ナディ(旧5.5、前川門中)

6.21 ウマチー(旧5.15)

7. ヒチュマ( 旧6. 吉日)

7.30~8.1 ルクグヮチウガン(旧6・24~26)

*24-大祭御願、25-三日ウタカビ、26-稲束祭

8.17 水泳大会

8.19~20 エイサー(旧7.14~15)

8.24 写生大会、書道・写生展(~25日)

9.10~11 豊年祭(旧8.7~8)

9.11 ワラビミキウグヮン(旧8.8)

9.13 柴指(旧8.10)

▲ ミャーダニ

10.12 クングヮチクニチ(旧9.9)

11.16 菊展示会

12・ ウンネー(旧11.吉日)

▲ フトゥキウガン

▲火祭