運天原のあゆみ、小年表

運天原小年表

1846年 オランダ基造られる。

1870年頃 首里系の士族が屋取を形成。

1931年 饒平名の杣山・浜苗代・運天・運堂と、我部の大池原をあわせて行政区運天原となる。

1944年10月 運天港が海軍の特殊魚雷艇基地であったため、空襲や艦砲射盤の余波を受ける。

1954年 サバヤ貝塚発見される。

1956年 サバヤ貝塚、琉球政府指定埋蔵文化財となる。

1972年 サバヤ貝塚県史跡となる。

1974年10月 運天原公民館落成。

1984年 屋我地西部県畑地帯総合土地改良事業により147haが整備される。

出典:「わがまちわがむら

運天原のあゆみ

先史~古琉球の運天原

運天原には、運天原サバヤ貝塚(県指定史跡)とタキギター河口遺物散布地(仮称)がある。運天原サバヤ貝塚(中扉写真参照)は、沖縄貝塚時代前期後半から後期の遺跡と考えられ、その時代の土器が確認されている。

タキギター河口遺物散布地は沖縄貝塚時代前期とグスク時代中期に相当する。土器・類須恵器・沖縄製陶器が採集されている(名護市の遺跡2)。

近世の運天原

近世の運天原地域は、羽地間切の饒平名村と我部村の一部に含まれていた。

近世末、日本の鎖国政策を揺るがす外国船の姿が我国の近海にみえ、琉球近海にも姿を現わすようになった。バジル・ホール(1816年)やペリー(1853年)の一行が今帰仁間切の運天港に寄港した。対岸のこの村人たちは、これらの外国艦船をどのように眺めたのであろうか。

1846年にフランス艦船クレオパトール号とサビーヌ号・ビクトリューズ号の三隻が運天港に入港し、約一カ月碇泊した。運天港に碇泊したフランス艦船を首里王府や薩摩藩の役人が監視を続けたが、乗組員たちは兵を率いて上運天に上陸し交易の交渉を求めてきた。琉球側は、貿易をするだけの物産がないことを理由に断りつづけ、結局条約締結に季らなかった。ところが、江戸幕府は条約締結について暗黙の了解を与えようとの動きをしたが、実現しなかった。その間、フランス艦船の乗組員二人が病気で亡くなり、運天原のサンタキ(山岳)に墓をつくり葬った。二人の死因について、地元ではハブに噛まれたと伝わっている。それが二基の墓碑のあるオランダ墓(市指定史跡)である。二人のフランス人を葬ったとき、泊の聖現寺の蘭人の先例にならって小豚や鶏・浜焼き鯛・九年母(くにぶ)・仙香・ワラ唐紙・蝋(ろう)などを供えた(琉球外交関係文書)。

近現代の連天原

明治の初期、運天原へ首里系の士族が寄留してきて、主に製塩業を営むようになった。製塩業が盛んな頃、ワルミ水路を舟で渡り今帰仁や本部までも売り歩いたという。戦前まで盛んに造られてきた塩も、戦後は次第に作られなくなった。

運天原は、昭和6年に饒平名のスマヤマ(杣山)・ハマナエシロ(浜苗代)・ウンティンブロー(連天原)・ウントー(連堂)と我部のウフチ(大池原)を割いて行政区運天原として独立した。

運天原の戦前昭和14年の戸数は86、人口は502人(内男263)である。戦後の人口推移はグラフに見るように、昭和39年は693人、同60年には390人である。昭和44年頃から減少が始まり、この20年間で6割弱に減った。近年はほぼ同じ規模を保っている。

西側の弁ガ崎は、山原船の碇泊地であった。上地姓の山原船持ちがおり、塩や木材などを積み込み那覇で売り、日用品や食品を仕入れ大宜味や国頭・与論・永良部まで運び商いをしていた(屋我地郷土誌)。その山原船の姿も古い写真にしかみることができなくなった。屋我地島に橋がかかるまで、本島への渡しは小舟が使われていた。運天原から今帰仁村の運天や上運天への渡し舟のコースがあった。

戦争中は、対岸の運天港に日本海軍の特殊魚雷艇の基地があり、そのため米軍の空襲や艦砲射撃の余波を受け被害を被った。

出典:「わがまちわがむら