田井等

田井等区の現況

世帯数:367世帯 人口:912 面積:4.67k㎡(2017年現在)

田井等は、方言でテーヤと呼ばれ、その語義について平坦地とも、逆に高坂の義とも解されている(宮城真治:沖縄地名考)。また、壇の浦で破れた平家の落ち武者が羽地按司となり、平家の平が平良の村名になったとも言われる(羽地村誌)。

小字テーヤ(田井等)には、田井等と親川の拝所があり、また田井等遺跡もあり、村の発祥地とみられる。集落の南側にある羽地ターブックヮを西に横切るように羽地大川が流れる。1735年蔡温によって大々的な改修工事がなされた。

田井等の集落は、丘陵の裾にまず立地し、のち南側の沖積低地へ碁盤目状にひろがった。南側に親川の新しい集落が延び、田井等の集落と渾然一体となっている。

主な施設に羽地小学校や羽地保育所、それに羽地農協中部支所がある。

田井等地区会館 名護市親川474番地1

田井等区のあゆみ

先史~古琉球の田井等

田井等には、田井等・ヤトバラ殿・デーグシク・フガヤ・仲間の五つの遺跡がある。これらはグスク時代から近世にかけての遺跡である。グスク時代には、小規模ながら集落を形成していたことがわかる。土器片のほか、青磁・染付・南蛮陶器など外からの移入物が採集されており、当時の生活状況の一端が知れる。グスク時代(古琉球)に、羽地地域を統括した按司が拠点としたのは、親川グシク(羽地城)であったのであろう。

古琉球の田井等は、現在の親川を含む範囲であり、親川グシクを背景にして発達した村とみられる。

近世の田井等

17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」に「平良村」とある。「高究帳」の石高は206石余り(うち田202石余、畠4.5石余)で、羽地間切では真喜屋・川上村に次いで規模が大きく、また土地の地味(村位)も川上・谷田と並んで「中」にランクされた。「由来記」(1713年)には、「田井等村」と記される。

田井等村に番所がおかれ、近世羽地間切の中心となったところである。近世中頃になると、番所の位置は親川村地内になることから別名親川番所とも呼ばれる。

18世紀後半に田井等村から親川村が分かれるが、祭祀は親川と田井等と一緒に行なっている。「御当国御並諸上納里積記」に「御城より田井等村番所迄16里5合7勺5才」(約641m)とあり、18世紀中頃まで番所は、田井等村地内にあったことが知れる。

1742年の羽地中部地域の「針図」(羽地間切針竿帳)があり、当時の田井等村や仲尾村・川上村などの耕地の分布と土地保有の状況を知ることができる。

近現代の田井等

近代の田井等の人口の動きは、まず明治13年には戸数68、人口354人(内男182)である。同36年には477人(内男235)で、この間人口は1.3倍に増えた。また、同年の平民人口442人に対して士族人口は33人(6.9%)である。下って昭和14年には戸数146、人口722人(内男336)を数える。その60年前と比べて、戸数は2.1倍、人口は2.0倍に増えている。

戦後の人口の動向は、推移グラフに見るように、昭和35年に874人、その後同46年頃まで徐々に減り続け(グラフの昭和44~46年の大きな減少は親川との出入りによる)、以後また徐々に増加して、同60年には845人と、25年前とほぼ同規模となった。世帯数も同じ動向をたどったが、昭和35年の178世帯に対し同60年には244世帯と、66世帯(37%)も増えている。

明治36年頃まで親川を通っていたスクミチ(宿道)も、田井等よりに新しい県道を通したため、県道沿いに集落が発達した。

田井等にある羽地小学校は、初め明治15年に親川に創立された。同35年に仲尾次に移転し、その後大正14年に振慶名に分教場が設置された(低学年・4教室)。昭和13年には、この振慶名の分教場を拡張・増築して移転した。敷地7,892坪、校舎613.15坪の規模であった。これが、現在の羽地小学校に直接つながる場所である(羽地村誌、宮城真治資料より)。戦時下、昭和16年には羽地国民学校と名前が改められた。戦後の昭和21年には、8年制の初等学校に、同23年には6年制の初等学校に替わった。その間、同22年には、校区民総出で木造茅葺校舎11棟37教室が建てられ(児童2,000名余)、また同年稲田分校が設立された(羽地村誌)。

明治12年の廃藩置県により、多くの士族が山原に移り住んだ。羽地大川の上流域にも寄留士族をはじめ、近隣の人々が開墾で山の生活を始めた。田井等のタガラは、この羽地大川上流域の中心地であった。上流域は、田井等の他に川上。親川・振慶名・名護の地内にまたがっている。明治の前期から沖縄戦までの約半世紀の間に、この流域で暮らした家族は延べ250世帯以上と推定される。主食である芋をはじめ、明治期は藍が換金作物として重要であった。炭焼や薪も暮らしを大きく支えた。大正期以降はキビ作も広がった。この地域(タカラ)に、大正9年羽地小学校の分教場(大川分教場)が設立された。昭和20年までに、4年生修了生を250名送り出した(後述) 。現在、この上流域には羽地ダム建設が計画されている。

昭和20年4月8日には、米軍は陸路羽地に侵攻し、本部半島を分断した。まもなく田井等を中心とする一帯は「民間人収容所」とされ、多くの地元住民や本部・今帰仁など近隣町村の住民、そして中南部からの避難民がここに収容されてきた。一時は72,000人にも人口が膨れ上った。地区内には、軍人収容施設の他、憲兵本部・裁判所・警察本部・食糧配給所・人事監督所・養老院・孤児院・学校などの諸機関が設けられた。同年9月には市会議員そして市長選挙が実施され、田井等市が成立した。山原・沖縄の戦後の出発であった。そして、10月末に元の居住地に帰ることが許され、人口も急減し、11月末には実質的に田井等市は解消した。

同22年に田井等・振慶名・伊差川の一部にまたがる地域に行政区山田が成立した。

田井等の産業の現況を就業者の構成について見ると(同表参照)、就業者347名のうち、第1次産業20%、第2次産業19%、第3次産業61%という構成で、第3次産業の比重が大きい。この傾向が定着したのは昭和45~50年の時期である。この15年間に大きく伸びた第3次産業では、サービス業・小売業が圧倒的に多く、両者で第3次産業の83%を占める。国道58号線沿いに立地する各種事業所もこの間急激に増えた。

第1次産業(農畜産業)の就業者の比率は、15年前の42%から半減したが、その内容を見ると(農業基本統計表参照)、耕種ではキビと水稲が重要作物で、パインがそれに次いでいる。農家数はここ15年の間に第2種兼業農家を中心に7割に減った。経営耕地面積は、全体として54.6haから36.7haへと3分の2になった。収穫・栽培面種でみると、キビやミカンは変化が小さいものの、水稲は27.1haから13.2haへ、またパインは15.4haから5.2haへと激減している。それでも水稲は、現在羽地地区また名護市で第1位の面積を有している。

畜産では養豚が盛んであるが、飼養頭数は減少傾向にある。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の田井等の御嶽として、「由来記」(1713年)にオシキン嶽(神名ササラモリノ御イベ)が記される。さらに、池城里主所神と神アシアゲ、そして池城神アシアゲがある。祭祀を司ったのは、中尾ノロとトモノカネノロであるが、海神折目(ウンジャミ)の時だけは、真喜屋ノロ・屋我ノロ・我部ノロ・伊差川ノロ・源河ノロもそれに加わった。当時の月々の祭祀は、一覧表の「由来記」記事に見るとおりである。

現在、拝所は集落の北方の丘陵地に、集落を囲むようにある。西側の振慶名との間の森にはデーグシクが、その森の裾にはシドゥガミヌトゥヌがある。北東側の親川を隔てる丘陵地にはヤトゥバラニガーミヌトゥヌ・田井等アサギ・イシドゥガミヌトゥヌがある(国頭の村落)。その丘陵を親川グシクに向かってハミミチ(神道)が通り、その途中にハミヌミャー(神の宮)がある。

現在、部落の祭祀を司る神役には、イシドゥガミ・シドゥガミ・ヤトゥバルニガーミがいる(国頭の村落)。

現在も続く伝統的年中行事は、表に見るように、旧1月10日のパチウガン(初御願)、2月のムギヌプーウガン(麦穂祭)、3月3日の浜下り折目、4月子[ね]の日のアブシバレー、5月のウマチー・ハジヌウガン(風の御願)、6月の初米御願・六月折目御願、7月盆後初の亥[い]の日のウンジャミ御願、8月8日のワラーミキ御願、10日のシバーシ、15日の十五夜御願、9月8日のミャーダニ、9日のクングヮチクニチー、10月のタントゥイ御願、11月のウンネーウガン・ピーマチウガンなどがある。

4月のアブシバレーは仲尾の海岸で近隣各字と合同で行なう。

芸能

田井等は、親川と合同で1年毎に豊年祭を行なう。旧8 月6日のメーズクミ、7日のスクミは親川公民館で、8日の正日と9日の別れは田井等公民館で催す。

初めに総踊り、次に獅子舞、そして長者の大主があって雑踊りに入る。踊りの最後に組踊が演じられ、もう一度獅子が舞い、棒が演じられて祭りが終る。組踊には「大浦大主」で知られる「高山敵討」がある。特に獅子舞は有名である。

最近、中部からエイサーを導入し、青年たちが村を活気づけている。

文化遺産

田井等の通称ピームイ(碑文森)の小さな丘に「改決羽地川碑記」(1744年創建、1820年再建)が建つ。雍正13年(1735)の羽地大川改修事業を記念して建立されたもので、昭和44年8月26日史跡として県指定を受けている(川上のあゆみの項参照)。

なお、田井等地内には、タガラの「大川分教場跡記念碑」(昭和52年建立)がある。明治初期から昭和20年まで、延べ250世帯を越える人々が羽地大川の上流域で山の暮らしを営んだ。大正9年には、その中心部であるタガラに羽地小学校の分教場が創設された。4年生までこの分教場に通い、5年生からは下の仲尾次の本校に通学した。この分教場の修了生は250名を数えた。そのことを記念して建立された碑である(我那覇隆光:名護碑文記所収)。

田井等の豊年祭は親川と合同で催されるが、その際に演じられる「獅子舞」は貴重な民俗芸能として評価が高い。

田井等の拝所(テーヤアサギ)に生育する5本のリュウキュウマツも見事な老松である。胸高直径85~114cmの太さをもち、最大のもので樹高16.5m、推定樹齢200年に達する(名護市の名木)。

田井等の地域史料は、これまで52点が確認されている。久場川家史料は久美里引・親川引の「日記」を中心に7点、喜納家史料は道光5年(1825)以降現在に至る荼毘帳13点をはじめ、近代の「従軍日記」(明治38~39年)や昭和期の保険証書類など計27点が伝存する。小川徹氏確認史料で重要とされる、「親川引こひり引居神居代請目帳」(1862年)や「子孫共江相伝肝要日記」(1876年)をはじめ、計5点がある。さらに、田井等区が保管する「基本金本立帳」(明治36年以降)は、近代の区財産・財政の推移が詳細に記されており、注目される地域史料である。

田井等に伝わる多くの伝説の中から二話を紹介しよう。

溝井ウェーキ

溝井[みじゅい]ウェーキは羽地でも有名な金持ちで、下男が何十人もいた。朝、その下男たちが畑仕事に行く時には長い列ができた程だった。それで田井等の人たちは、溝井の下男よりも早く出かけなければ、その長い列の後になって畑に着くのが遅れたそうだ。

そこの先祖に溝井親方と呼ばれる人がいた。その人は名護と羽地で水を分ける時の、羽地側の代表であった。名護の代表である名護親方とサトウ森の上で話し合い、名護が水を多く取ろうとしたが、溝井親方が白衣裳を着て、「自分の意見が通らなければここで腹を切る」と言ったので、名護親方はその迫力に負けたそうだ。(昭和60年民話調査より)

トゥクドゥヌ森の由来

護佐丸が阿麻和利に討たれた時、子供のモリチカと乳母を逃がした。その時逃げて行った所が川上の山の方だったが、そこで道に迷ってしまって引き返した。引き返して着いた所が田井等の真ん中にあった森で、そこをトゥクドゥヌ森(落ち着く森)と呼んだそうだ。(昭和60年民話調査より)

田井等の小字一覧

ナハマ[仲間/仲間]

シトゥマタ[里又/里又]

テーヤ[田井等/田井等]

フガヤ[井ガヤ/ヰガヤ]

フクジ[福地/フクヂ]

グンムイ[小堀/小堀]

(アップウイ)[サデマシク/サデマシ]

ヤマダ[山田/山田]

オーカワ[大川/大川]

タガラ[タガラ/タガラ]

マタキナ[又喜名/又喜納]

シブチャマタ/ スブキャ[シブチヤ又/シブチヤ又]

田井等は12の小字からなる。集落はテーヤを中心に広がった。羽地小学校をふくむフクジは、田井等で一番肥えた土地である。一方、グンムイは羽地大川の旧河道に当たり、かつては氾濫の被害をしばしば受けた。テーヤからフガヤ・シトゥマタ・ナハマの丘陵地は、近年の土地改良により地形が大きく変わった。ヤマダには、行政区山田の集落が位置する。羽地大川上流域のウプハー・タガラ・マタキナ・シブチャマタには、明治期から昭和20年まで多くの人々が開墾に入り、山の生活を営んだ。

田井等小年表

1739年 田井等の地頭代川上親雲上、貧民に米や銭を分与する。

1830年 「改決羽地川碑記」再建。

1844年 又喜納山の開地作職を願い出る。

1908年 村内を横切る県道開通。

1917年 碑文の裏に初めて屠殺場設立。

1920年 羽地大川上流タガラ原に大川分教場設置。

1933年 田井等・親川.仲尾・振慶名が連合して産業組合を設置。

1938年 羽地小学校、福地原に新築移転。

1941年 産業組合解散。

1945年4月 名護・本部及び中南部の人々を含む戦禍被災住民の収容所が置かれる。米軍により、当地を中心とする田井等市が設置される。

羽地小学校に米軍がモータープールを造る。

1947年 モータープールを名護大兼久に移転。

1954年 田井等・親川・川上・仲尾・振慶名が連合して、田井等に中部農協を設立。

1956年 ガリオア援助で親子ラジオを始める。(20年続く)。

1972年4月 羽地幼椎園、羽地校に開園。

8月 羽地保育所開設。

田井等の行事・活動一覧

昭和60年1~12月

1.14 評議員会* 本年はあと9回開催 (2,4,7,9,10,11-2回、12月一2回)

1.16 戸主会

1.17 ウニムーチー(鬼餅御願、旧12.8)

2.18 パチウガン(初御願、旧1.10)

▲三月四度御物参(由来記)

4.4 ムギヌプーウガン(麦穂祭、旧2.吉)

4.11 浜下り折目(旧3.3)

4.27 区民運動会

5.20 アブシバレー(旧4.子)

*仲尾の海辺にて共催

6.21 ウマチー(稲穂祭、旧5.15)

青年会・向上会相撲大会

▲年浴(由来記)

7. 24 ハジヌウガン(風の御願、旧6.吉)

初米御願・ヒチュマ(旧6.吉)

8.~ 六月折目御願(旧6.24~26)

24:アプマチウイミ

25:ウイミ

26:ヤーサグイ

* 親川と共催

8.12 旧七夕(旧7.7)

8.18~20 旧盆(旧7.15)

8.23 ウンギャミ御願(旧7.盆後初亥)

*仲尾・親川・川上と共催

9.11 ワラーミキ御願(旧8.8)

9.13 シバーシ(柴指、旧8.10)

9.18 十五夜御願(旧8.15)

9.18 シーシー旗ドーシ(旧8.15)

*豊年踊は1年おきに行なう(旧8.8~9)

5日一マエジクミ(敬老会兼ねる)、

6日一シクミ(5,6日は親川で)、

8日一正月、

9日一ワカリ(8,9日は田井等で)

10.11 ミャーダニ(旧9.8)

10.12 クングヮチクニチー(旧9.9)

11. タントゥイ御願(旧10月)

12.8 ウンネーウガン(旧11.吉)

12. ピーマチウガン(旧11.吉)

12.26 戸主会