稲嶺

稲嶺区の現況

世帯数:144世帯 人口:276人 面積1.68k㎡(2017年現在)

稲嶺は方言でハニクと称され、隣接する真喜屋と併称してマギャー・ハニクと呼ばれる。稲嶺そのものの語意は未詳。名誰市の北東部に位置し、東西をそれぞれ源河と真喜屋に接する。集落は、海岸に近いハニク(兼久)地に立地し、碁盤目状の形態をなしている。東側の集落に比べて、西側の区域は屋敷地が狭く、後の拡張・成立によると考えられる。集落の北側を国道58号線が通る。かつて稲嶺から源河に至る海岸沿いの道路には、枝振りのよい松並木があった。しかし、沖縄戦で焼かれたり、切られたり、あるいは道路拡張や松食い虫のため失われていった。かつての水田は、20年前頃からキビ畑に変わっていった。

主な施設として、北部製糖羽地事業所・羽地農協稲嶺支所・羽地農惨協鶏卵処理施設などがある。

稲嶺集落センター 名護市字稲嶺987番地

稲嶺区のあゆみ

先史~古琉球の稲嶺

これまでのところ、稲嶺地内で古琉球以前の遺跡は発見されていない。

近世の稲嶺

稲嶺は、近世中頃に真喜屋から分村して成立したとされる。その時期は、蔡温による村新設や移動に伴う時期(1736年)とも言われるが、断定できる史料はない。「由来記」(1713年)の真喜屋村に見えるマテキヤ獄は、現在稲嶺地内にある。祭祀は、今も真喜屋と合同で行なっており、かって一つの村であった歴史をとどめている。

近現代の稲嶺

稲嶺の近代の人口の動きを見るに、まず明治13年には戸数89、人口465人(内男222)である。同36年には588人(内男285)で、この間に人口は約1.3倍に増えた。また、同年の平民人口596人に対して士族人口は4人(0.7%)で、士族が極めて少ないところである。下って昭和14年には戸数105、人口404人(内男196)を数え、その60年前に比べて戸数は1.2倍に増えたが、人口は13%減っている。

戦後の人口の動向は、推移グラフに見るように、昭和35年に401人、その後ごく僅かずつ減って、同60年には349人となり、この25年の間に13%減ったことになる。なお、世帯数はほとんど変動なく、この25年間に101世帯から118世帯へと少し増えた。

明治29年、稲嶺に羽地尋常小学校の分教場が設置され、同31年に稲嶺尋常小学校となる。

昭和18年に真喜屋のクルサチー(黒崎)に移転する。当時の面影は、公民館前に残る校門と奉安殿の跡で、僅かながら想像できるだけである。同20年のはじめ、本島各小学校の御真影が稲嶺国民学校に集められ、大湿帯の壕に避難したことがある。

稲嶺の地割制度については、明治32年の「土地整理二関スル書類綴」があり、山原におけるこの制度の実態を知る上に貴重な史料である。それによると、この最後の地割は、200地を0.5地/人として85戸の区民に、地割率は変更せず男女同一に配当すること。雇人も今回は本人に配当すること。地割地の受け渡しは、田は明治33年旧6月、畑は8月限りとすることなどが取り決められた(春日文雄:「土地整理期」沖縄農村の社会構造)。

原山勝負や村行事の折り、公共的広場として使われたマーウイ(馬場)があった(幅7間・長さ1町180余)。その跡地は、現在屋敷区域になっている。

稲嶺の現在の産業は(就業者構成表参照)、就業者153名の内、第1次産業39%、第2次産業19%、第3次産業42%という構成で、やや第3次産業(小売・サービス業)に比重があるものの、第1次産業(農畜産業)の占める割合は依然として大きい。この15年間の動きは、第1,2次産業がやや減った分、第3次産業(特に小売業)が増えた。

農業について見ると(農業基本統計表参照)、稲嶺はなんといっても養鶏が主力である。羽地のかつての水田地帯は共通して経営耕地面積が少ないが、稲嶺はその典型的なところである。耕種はキビが中心だが、ここ15年の間に作付面積は半分に減っている。

稲嶺の養鶏は、羽地はもちろん、名護市でもトップを走る。15年前すでに5万羽以上飼われていたが、現在では13万羽に達する。ここに至るには、昭和49-50年度に稲嶺養鶏団地(鶏舎5,972㎡)が整備されたことが大きな力となった。それまでの屋敷内での舎飼いが一新され、さらに昭和56年度には廃鶏処理加工施設も整備された。

稲嶺の養鶏の歴史で忘れられないのは、昭和45年5月突然流行したニューカッスル病のことである。猛威をふるったこの伝染病のため、7万5千羽余の鶏を焼却と生き埋めにせざるをえず、稲嶺の養鶏業は全滅した。被害総額は、当時のお金で25万ドルに達した。しかし、区民や行政の努力により、わずか3カ月で養鶏が再開された。鶏たちの霊を慰めるべく、区民の手によって「鶏魂碑」が建立された(松田平昌:名謹碑文記所収)。

なお、北部製糖の羽地事業所は稲嶺地内に立地する。

伝統文化

拝所と祭祀

集落の東、北部製糖工場のすぐ東の山の中腹にマディキャウタキがある。そこは、「由来記」の真喜屋村の項にあるマテキヤ獄に当たるものと思われる。現在も真喜屋・稲嶺の埴要な拝所となっている。山の斜面を削って造った広場に、コンクリートの立派な洞がある。昭和9年に建てられたもので、それ以前はそこより50mほど上に赤瓦の洞があったという。

現在字でそこを拝むのは、1月の初御願、旧2月のマディキャウイミ、8月のワラビミキの時で、9月のミャーダニー、10月の種取りには拝まなくなった。

伝統的な年中行事は、表に見るように、そのほとんどが真喜屋と合同の二ヵ字ウガンである。その巾で、9月9日の拝所祈願祭は稲嶺の人々だけで拝むことになっているが、神役は真喜屋から来ることになっている。

芸能

旧8月の豊年祭は真喜屋と合同で催す。真喜屋・稲嶺の代表者で組織される真稲神伺会が中心になって運営に当たる。旧8月6日から8日は真喜屋で、9日の別れの日だけ稲繊の公民館で行なわれる。

文化遺産

稲嶺には、指定文化財はまだないが、「ふる里之碑」の側にある「二代目コバテイシ」は、思い出多い樹である。戦後、台風で倒れた初代の二本のコバテイシは、昭和9年に沖縄山林会より名木の指定を受けたほどの老樹であった。その老樹の広場は、普段の涼み場として賑ったばかりでなく、アブシバレーや旧8月の村踊りなども催されたという(仲村源英:名謹市の名木所収)。

稲嶺ではハル石が一基みつかっている。「き・まてきや原」と刻まれ、現佐の小字真照喜屋(マディキャ)に対応する。

戦後の建立にかかるが、稲嶺にはいくつか記憶に留めたい碑が建つ(名護碑文記)。

戦前、国頭農学校校長として、またキビの大茎種の導入と普及、甘藷の畦立植えや有用植物の普及に功績のあった宮城鉄夫氏(1876~1934)は、稲嶺の出身である。戦後、墓所が奥武島に移築された際、「宮城鉄夫先生頚徳碑」も建立された。

宮城善兵氏(1906~1985)は稲嶺が生んだ実業家であり政治家である。昭和52年、叙勲を受けたことを記念して、公民館広場に氏の胸像が建立された。

国道58号線に面して建つ「ふる里之碑」には、「名護からや羽地/伊差川や一里/真喜屋兼久までや/二里のつもり」という、人々に愛唱された歌が刻まれる。黒御影石の立派なこの碑は、昭和56年大阪在の宮城清市氏らの寄贈による。

稲嶺の地域史料で注目されるのは、琉球大学の島袋源七文庫に収められている「土地整理二関スル書類綴真喜屋・稲嶺村事務所」(明治32年)である。この史料をめぐって、山原でも貴重な地割制度の研究が進められてきた。今ひとつ重要な史料に、親川家史料がある。66点にのぼる史料のうち、拝み廻り関係史料は明治25年から昭和18年にかけて連続した記録で、貴重である。茶毘帳は、これまでの確認では名謹市で最も古いとされる乾隆54年(1789)のもの、以降大正年間にかけて12点ある。他に、神役交替や一門の人口調べなど、民俗史料を中心にまとまった家史料として重要である。また、宮里家の「御願書」(明治30年)は、近代の役人履歴書として貴重である。

稲嶺では、現在字誌づくりが進行中で、その過程でさらに地域史料が発掘され、字誌に活用・集成されることと思われる。

稲嶺の小字一覧

ヤーヌメー[屋之前/屋之前]

シミヤー/シミヤドー[志宮/志宮]

マディキャ[真照喜屋/真照喜屋]

クィユー[乞与/乞与]

ウフクビリ[大久備利/大久備利]

稲嶺には5つの小字がある。集落はヤーヌメーの兼久地に立地する。シミャーの平地をトゥンチダー(殿内田)という。かつて按司が治めた土地と伝える。その南のターチジムイと呼ぶ丘では、戦前白い煙を焚いて船を見送った。マディキヤには御嶽がある。

稲嶺小年表

1896年 羽地小学校の稲嶺分教場設置。

1898年 稲嶺尋常小学校設立。

1904年 日露戦争で戦死した新里徳清葬儀(国頭郡で初めての戦死者)。

1911年9月 稲嶺青年会結成。

1919年 稲嶺校に高等科を併置。

1933年 部落の農業組合を設立。

1937年2月 宮城鉄夫の墓前に碑を建てる。

1940年1月 稲嶺の入江にイルカ来る。9頭捕獲。

1941年 農業組合解散。

1943年 稲嶺校の高等科真喜屋へ移転。

1954年 稲嶺農業協同組合設立。

1967年1月 北部製糖羽地工場落成。

1976年3月 養鶏団地完成(6万㎡)。

1980年4月 羽地農協鶏卵処理施設完成。

稲嶺の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

1.1 新年会

1.2 新年御願(パチウグヮン)及び初起し

1.3 生年祝い

1.28 真照喜屋神殿移動のため御願

2.16 稲嶺誌編集委員会*本年は毎月開催

3.9 代議員会並びに字誌編集委員会

3.21 真照喜屋御願(真喜屋共催の田植式)

4.10 字誌拡大委員会

4.14 清明祭

4.17 代議員会*本年はあと5回開催(7,8-2回、10,12月)

4.19 戸主会*本年はあと5回開催(5,7,9,10、12月)

4.25 老人会総会

5.14 婦人会常会

5.17 老人会視察

6.6 畦払い(旧4.吉日)

6.15 向上会視察

7.2 ウマチー(旧5.15)

7.21 野球大会* 真喜屋と

7.28 区民運動会

8.4 稲嶺・真喜屋2力字代議員会

8.10~12 口クグヮチウガン(旧6.24~26)

8.22 七夕(旧7.7)

8.22 2ヵ字運営委員会*9月にかけて3回開く

9.3 緊急代議委員会

9.12 向上会常会

9.20~23 豊年踊り(旧8.6~9)

*20-前仕組、21-仕組、22-正日(真喜屋)、23-別れ(稲嶺)

9.24 トゥカウグヮン(旧8.10)

9.25 十五夜(旧8.15)

10.19 真照喜屋御宮草刈り作業

10.22 拝所祈願祭(旧9.9)

11.2 2ケ字代議員会