名護市の沖縄貝塚時代後期

今から約2200年~800年前の時代の遺跡は、名護湾岸地域では喜瀬・部瀬名・許田・名護・安和で、屋我地島では運天原・済井出・屋我・饒平名で、そして東海岸では久志・辺野古・安部・嘉陽などで確認されている。この時代、人々は海岸近くの砂地の「カネク」(浜堤:ひんてい)で波の音を聞きながら住むようになる。家族を単位としたが、集団規模は小さかった。当時、米や麦・粟などの穀物を栽培する農業はまだ行われておらず、人々はイノーで魚介類を採ったり、野山の草や実を採集して生活を営んでいた。イノーはたいへん豊かで安全な海だ。多種多様な魚や貝類が繁殖し、時にはジュゴンやクジラ・イルカも貴重な海の幸として食べた。山にも、木の実や植物、イノシシや烏などの幸が身近にあった。

この時代は、本土では弥生時代から古墳時代を経て国家形成がなされ、奈良・平安へと展開していた。沖縄には、弥生文化は一部に伝わったが定着はせず、また古墳文化は確認されていない。沖縄は大和国家の外にあって、原始的な生活が続いていた。

出展:「5000年の記憶