安部のあゆみ・小年表

安部小年表

1941年 11月 昨年の作り分け小作制の廃止にともない米の増産なる。

1945年 中南部からの疎開者・避難民で人口急増する。

1951年 安部股が三原の区域となる。

1957年 10月 安部土地改良事業によリダムと用水路施設が整備される。

1962年 区事務所新築。

1972年頃 土地ブームの中で上原からカヌシチャ浜の丘陵地買い占められる。

1974年 5月 安部公民館落成。

1979年 県営溜池等整備事業により安部ダムが完工。

1982年 3月 安部老人クラブ、日本さくらの会より「さくら功労賞」を受ける。

土地改良事業実施。

安部のあゆみ

先史~古琉球の安部

安部には、安部貝塚・北上原遺跡・上之島遺跡の三遺跡がある。

安部貝塚は沖縄貝塚時代後期、それにグスク時代から近世にかけての遺跡である。貝塚 時代後期の上器をはじめ、青磁。染付・南蛮陶器・沖縄製陶器などが採集される。北上原遺跡は、グスク時代から近世にかけての遺跡である。集落の西側の台地上にあり、類須恵器・南蛮陶器・染付・沖縄製陶器・赤瓦などが採集される。

もう一つは、集落の北西の上之島と呼ばれる丘陵地にある上之島遺跡である。古琉球から近世にかけての遺跡で、現在の集落は上之島から移動してきたといわれる。中国製の青磁・染付、それに喜納(知花?)焼や壺屋焼などの沖縄製陶器が採集される(名護市の遺跡2)。

近世の安部

17世紀中頃の「絵図郷村帳」や「高究帳」で「あぶ村」とみえる。「高究帳」による石高は、89石余り(田70石余、うち永代荒地19石を含む、畠19石余)である。

御法度の諸木を盗んだり、密々に商売する者がいたので、乾隆13年(1748)に津口勤番役をつけて船改めをさせた。同16年(1751)に勤番役は引き揚げ、山奉行筆者を増やし津口勤番も兼務させた。安部・汀間・嘉陽は、安部詰めの山筆者が所管した(地方経済史料)。

近現代の安部

近代の安部の人口を見ると、まず明治13年には戸数55、人口194人(内男104)である。同36年には392人(内男188)で、この間に人口は2.0倍にも増えた。また、同年の平民人口224人に対して士族人口は118人(35%)で、士族人口の多い村であった。士族の居住の多い小字安部福地は、後年三原に含まれる。

カヌシチャ(川の下)の浜には、古くから糸満漁民が季節的に仮小屋を作って漁をしていた。廃藩置県後になって勝連浜から移住してきた人たちが、付近を開拓して田畑にして住み着き、4, 5軒の小集落を形成した(久志村誌)。

昭和10年以降、久志側から県道の整備がなされ、陸の孤島苦から開放された。今では、東の幹線道路である県道70号線(名護国頭線)が通り定期バスが走り、交通の便がよくなった。

大正14年に汀間区の東側区域を割いて行政区三原が成立した。昭和22年、安部と嘉陽の福地原を合わせて現在の三原となり、さらに同26年には地籍字として成立した。

出典:「わがまちわがむら