宇茂佐のあゆみ、小年表

宇茂佐の小年表

1880年頃 志味屋原一帯に屋取形成。

1908年3月 第2回宇茂佐学事奨励会開催。

1909年3月 学事奨励会。

1916年5月 宇茂佐耕地整理組合設立。

8月 志味屋原耕地整理組合設立。

1917年2月 両組合事業完了。

1933年5月 産業組合設立。

1937年11月 中部土地改良組合設立。農道・潅がい施設の整備、白銀ダム建設に着手。

1938年4月 屋部川河口に水門完成。

1939年9月 宇茂佐信用販売購買利用組合解散。

1943年4月 山入端原に行政区中山成立。

1945年4月 米軍宇茂佐海岸に上陸。住民田井等収容所に収容される。

1949年2月 北部農林高校兼久原に移転。

1954年 宇茂佐公民館改築。

1956年 西兼久護岸工事。

1963年 学道工事完了。

1972年 簡易水道給水。

1974年11月 宇茂佐公民館落成。

1976年2月 うんさの森団地入居。

4月 県立名護養護学校開校。

1978年6月 志味屋原に環境センター(ゴミ焼却場)運転開始。

1980年1月 宇茂佐地区土地区画整理事業認可される。

出典:「わがまちわがむら

宇茂佐区のあゆみ

先史~古琉球の宇茂佐

小字東兼久原の丘陵地の東の裾に、東兼久原貝塚がある。沖縄貝塚時代後期からグスク時代にかけての遺跡で、土器・貝類・沖縄製陶器の他、この時期にはめずらしい壷形口縁の破片も出ている。

東屋部川の東岸に、宇茂佐古島遺跡がある。そこでは、グスク時代後期から近世にかけての遺物が採集されている。この古島は宇茂佐と屋部の故地とされ、そこにいた7軒のうち6軒が屋部に、1軒が宇茂佐に移ったという伝承がある。また、屋部川の河口付近からは高麗系の古瓦が出土している(名護市の遺跡2)。

近世の宇茂佐

近世の宇茂佐は、名護間切に属し、「絵図郷村帳」や「高究帳」には、「うむさ村」と見え、「由来記」(1713年)には「宇茂佐村」とある。「高究帳」に見る石高は32石余(うち田31石余、畠1石余)で、規模が小さく、また田の比率の高い村であった。「ペリー訪問記」(1856)にはウンサー(Oonsah)とある。

近現代の宇茂佐

近代の宇茂佐の人口を見ると、まず明治13年には戸数89、人口453人(内男226)である。同36年には632人(内男311)を数え、この間人口は1.4倍に増えている。また、同年の平民人口512人に対して、士族人口は116人(18.5%)である。その頃には、首里・那覇などから士族が移住していて、新波原や志味屋原に屋取集落を形成していた。

最近80周年を迎えた宇茂佐学事奨励会が結成されたのは明治40年頃で、同41年の新聞によると、3月29日に教職員や児童をはじめ隣村の人も招いて、第2回目の賞品授与式を盛大に挙行している。他村に比べ土地条件の悪かった当村で、人材の育成に力を入れた結果、県内でも早い時期に学事奨励会の結成を見たのである(学事奨励会80周年記念誌)。

大正4年3月、耕地整理奨励規定が公布され、翌年の5月には字茂佐耕地整理組合が設立された。これは県内の耕地整理事業では、伊差川の深田耕地と共に、最初に取り組まれた事業であった。ここでは、満潮時になると潮水が侵入するので、耕地整理事業と同時に潮害を防ぐ自動開閉の水門も設置された。同年の8月には志味屋原の耕地整理事業も始まり、両事業が完了したのは大正6年の2月で、4月にはその竣工式を行なっている。

その年(大正6年)、鹿児島郵船所属の第三運輸丸が遭難し、多くの人命を失った。当時の新聞でも、「名護村の大騒動、村民総出修羅場と化す」「県下未曾有の一大惨事」などと報道される程の大惨事であった。その船が沈んだのが宇茂佐沖であった。

名護町が町制10周年を迎えた昭和8年、宇茂佐と山入端の両区に部落単位の産業組合が設立された。その頃から水稲の新品種台中65号が導入され、灌漑施設を整備しなければならなくなった。そこで昭和12年に、中部土地改良組合が設立され、宇茂佐原.志味屋原一帯の水田の農道の整備や潅概のための白銀ダムの建設工事が始まった。翌13年には東屋部川の河口に大きな水門が完成し、農地を潮害から守ることに成功し、米作始まって以来の収種を記録した(名護六百年史)。

昭和18年、宇茂佐・屋部・山入端.宮里にまたがる山入端原に中山区が成立した。

昭和20年4月、米軍の沖縄本島上陸が始まり、宇茂佐や屋部の海岸からもマリン部隊が上陸した。宇茂佐の住民は集落裏の大土原(プーミチャー)の洞窟や新波(シンパ)の山中に隠れたが、新波を経て伊豆味に向かった部隊に捕えられ、早い時期に田井等の収容所に送られ、部落に戻ることができたのは、その年の11月だった(わが村十年の歩み)。

昭和21年の屋部村独立の際には、他6区と共に屋部村に含まれた。

昭和24年、名護農業研究指導所に併設されていた農林学校が、現在地に移転して、北部農林高等学校となり、現在に至る。

出典:「わがまちわがむら