北山の時代と名護・山原

北山の成立

これらの各地の諸按司の上に、山原では今帰仁グスクを構える北山が広域的な支配者として君臨する。14世紀の頃である。北山(今帰仁グスク)は、13世紀末から現在の今帰仁城跡を拠点として築城を進める。14世紀を通して、山原を支配下に置くようになり、小王国を形成した。また沖永良部島までも支配下に入れたといわれているが、実態は明らかでない。14世紀の中頃には、北山は中・南部の支配者である中山(浦添)・南山(糸満)と勢力を競うようになる。

北山の成長と滅亡

1368年、中国では元が滅ぼされ、明が成立した。まもなく、1372年から中山が明と進貢貿易を開始した。少し遅れて1380年に南山が、1383年には北山がそれに続く。北山の明への進貢貿易は、1415年までの約30年間に13回を数えた。14世紀後半、山原の支配者ある北山は、中山・南山と桔抗しつつ、明と進貢貿易を行っている。その時期の貿易の範囲と内容は、北山から出土する中国や日本の陶磁器や武具・工芸品から推し量ることができる。北山はこれら諸地域と直接の貿易ルートを持っていた。また、山原の各集落からも、少し品質は下がるが、同時期の中国製の陶磁器類が数多く出土する。北山交易ネットワークが想定される。

北山は、4ha余の広大な城域をもち、当時は沖縄一の規模であった。近く、この今帰仁城跡を含めて、沖縄の主要なグスクと拝所がユネスコの世界文化遺産に登録される。北山が栄えた時期は、14世紀中頃から15世紀初めまでである。1416年、中山(第一尚氏)が率いる連合軍によって、北山は攻め滅ぼされる。中山軍によって滅ぼされるまでの約1世紀は、怕尼芝(はにし)→珉(びん)→攀安知[はんあんち]という王が北山を代表していた。

中山軍が北山を攻略する際、名護・羽地・国頭の諸按司は中山軍につき、寒汀那(勘手納:[かんてな)湊から出港したという(『中山世譜』)。北山を滅ぼしたあと、尚巴志は1422年に子の尚忠を今帰仁城に北山監守として配置し、山原の支配と警護に当たらせた。この北山監守制度は、近世の1665年まで維持された。山原は、中南部とは異なる琉球王国の統治を受けたのである。

出展:「5000年の記憶