汀間の地形・小字 区界図と小字一覧

汀間の小字一覧

近世史料には「てま村」とみえる。汀間川の対岸には「かてかる村」跡がある。汀間は、このかてかる村およびウンバカリから移ったと伝える。大正14年志根垣・道垣・慶屋を分け、行政区三原を創設させる。カヌシチャ浜は、丸目カナと請人神谷の伝説(民謡「汀間当節」)で有名。ここに戦後一時期17軒の漁家があったという。久志中学校はここにある。

現在の汀間ムラは汀間川河口に形成されているが、対岸の「かてかる村」(ハデール)と、ムラから少し北に離れたウンバハリから移ってきた人々によってつくられたとみられている。現集落は碁盤目状に整然とし、各屋敷を囲む福木には樹齢三、四百年と推定されているものもある。明治半ばには久志間切(村)のなかで最も大きな戸数と人口をもち(戸数125)、大正末の一時期には久志村役場が汀間のムラヤーに置かれたこともある。大正十四年、汀間ムラの一部(シネーガチ、ミチェーガチ、ゲーヤ)を割いて、字三原がつくられた。幅広いティーマガーラ(汀間川)はフンナト(小湊)ガーとも呼ばれ、河口は山原船の寄港地としてにぎわった。当時は現在の三原小学校の下まで山原船が入ってくるほど水深が深く、台風時の避難場所にもなった。

汀間小字図

ムラ[村] 汀間の部落の中心地である。部落の東側を流れる汀間川には渡し船があったという。現集落と西の畑(現在の久志中学校敷地)、南の浜を含む。 ナートゥガー[港川] ナートゥとは海からの水と川からの水が入れかわる河口をいう。昔、ここら一帯はすべて田んぼだった。その田んぼの中に小さな川が流れ、農作業の後、そこで手足を洗ったという。集落西側の水田地帯、ティマダガーラ(ティマダ川)の下流低地を含む。ティマダ川の別名がナートウガーである。

イリモー:イリバル[西原]

別名、イリガネクともいう。部落の西側に位置しているからそういう。耕作してない雑草地帯をイリモーといい、耕作している砂地の畑をイリガネクと呼んでいるそうだ。ティマダ川を越えて瀬嵩ムラと接する山の部分。山裾に墓地、ガンヤーがある。

ムラクシ[村後]

部落の中心地から後方に位置しているからそう呼ぶ。「泉川」という湧水があって、昔は部落の共同井戸があったという。水質も良く「産川」としても利用したそうだ。集落背後の水田や、山据の飲料水源のイズミガー、ムラの開祖とみなされる親按司・若按司の墓などがあり、後ろの山も含む。

ウンバハリ[恩計]

もとは上村渠とも書いたという。ここに「カニマンガー」と称する泉があるが、それは、昔、金丸(尚円王)が当地に逗留したときに掘ったといわれている。現集落以前の古い集落。汀間川に面する。ノロ殿内、旧アサギや二つの拝み泉が残る。

ハデールー[嘉手苅/東嘉手苅・西嘉手苅]

汀間部落の発祥の地といわれる。「ハデルチョンガー」という当時の部落の共同井戸があって、「産川」としても拝まれていた。集落の対岸の低地と山。山据には古泉のテンガー、ウプウタキがある。

汀間は6つの小字からなる。集落のところをムラと呼ぶ。ウンバハーリは現在「恩計」と書くが、元の意味は上村渠であるという。汀間川を越えた対岸はハデールーと称し、村発祥の地と伝える。汀間の産川(うぶがー)はここのハデルチョンガーと、ムラクシの泉川である。

三原へは、川と山裾のあいだを行き、安部ムラへは、三原から山を越える道と、ハデールから海岸をたどって安部のカヌシチャ浜に出る道を利用した。羽地にはウンバハリから山のシジ道を通り、瀬嵩からの山道と合流して西海岸に出た。