東江

[あがりえ]

東江区の現況

世帯数:940世帯 人口3,162 面積1.18k㎡

東江は、方言でアガリと呼ばれ、名護の東に位置することに由来する。名護湾に面し、海岸は昭和47年から49年にかけて埋め立てられ、かつての白い砂浜はみられない。コーチマタの上流を水源とする幸地川(別称アナダ川)が、名護湾に注いでいる。東江は、幸地川を境にして東に位置する。東江の行政区域は、小字東袋原・東上原・溝原・東江原・山川原・嵩石原の全体と、小字大兼久原・幸地原のそれぞれの一部から構成される。

集落は、ジンガムイの麓からアガリ浜の方へ発達している。ジンガムイ付・近に、ジンガガーや番所跡、それにニガミヤー(根神屋)などがある。かつて、東江と大兼久との間に水田が広がり、両区の境界ともなっていた。今では、集落の景観としての境界はなく、渾然一体となり市街地化している。

主な施設に、名護博物館・名護市消防署・名護郵便局・名護税務署・名護公共職業安定所・県北部土木事務所・名護警察署・東江小学校・東江幼稚園・東江保育園・杉の子保育園・オリオンビール名護工場・沖縄電力名護支店・ホテル双葉荘・ホテルおおくら・ホテル城山・大城耳鼻咽喉科などがある。

東江のあゆみ

先史~古琉球の東江

東江には、名護博物館から東江公民館にかけての地域に溝原貝塚[みぞばるかいづか]があり、沖縄貝塚時代後期の土器や貝殻などが散布している(名護市の遺跡2)。

近世の東江

17世紀中頃の「絵図郷村帳」に、名護村・かねく村・城村の三力村がみえる。「東江村」とはみえないが、「絵図郷村帳」で記された「名護村」は東江村をさしているとみられる。17世紀中頃の「高究帳」や「由来記」(1713年)などでは、東江・城・大兼久の三力村がみえず、「名護村」だけが記される。そこでの「名護村」は、三力村を含んでいる。

「高究帳」にみる三力村を含んだ「名護村」の石高は、447石余り(田432石余、うち永代荒地39石余、畠14石余)であった。その名護村は、名護間切で最大規模の石高を示していた。

「由来記」にも「東江村」とは出てこないが地頭代東江大屋子、夫地頭[ぶじとぅ]に大兼久大屋子[うふやく]と仲兼久大屋子、また大兼久掟[うっち]が記されており、東江村があったことが知れる。しかし、東江の村名が史料に見えるのは、近世末の同治4年(1865)になってからである(地方経済史料)。

東江は、名護間切番所が置かれた村である。名護番所は、1673年当時東江原の銭川森[じんがむい]の南麓にあったが、1695年に現在名護博物館のある場所に移転したという(名護六百年史)。「御当国御高並諸上納里積記」に、首里から名護番所までの距離が示してあり「御城より同村番所迄拾四里九合」(約59.6km)であった。東江は、近世から明治・大正・昭和にかけて名護の行政の中心地であった。

幸地川にかかるあなだ橋の側にヒンプンガジマルがある。その下に乾隆15年(1750)に建立された三府龍脉碑記がある。名護遷都論と運河開削論を否定する立場をとった蔡温が、何故名護番所に近いこの場所に碑を建てたのか興味深い(名謹碑文記)。

近現代の東江

近代の東江の人口を見ると、明治13年には戸数147、人口697人(内男335)を数えた。当時の名護間切13ヵ村では、屋部・大兼久・安和に次いで第4位の人口規模である。なお、同36年の東江の人口は、東江・城・大兼久が一緒にされて名護村となるので、不明である。

明治15年(1882)東江に名護小学校が設置され、同21年に名護尋常小学校と改称された。同35年には高等科が併置され、名護尋常高等小学校となった。昭和16年には、名護国民学校と改められた。戦後は、東江初等学校にはじまり、昭和26年に東江小学校となり、同33年に東江小学校は現在の校地に移転した。その跡には名護英語学校が移ってきた。なお、現在その地には名護郵便局が建っている(東江小学校創立百周年記念誌)。

明治32年の東江には、旧番所(間切役場)・郡役所・学校・病院もあった。同45年までには、税務署・支金庫・招魂堂・図書館なども設けられ、名護の行政・文化の中心となった(戦前新聞集成1)。

明治32年東江の村屋を利用して夜学校が設けられた。生徒の数6,70名もおり、成績もすこぶる良好であった。同40年にも夜学校が開かれた。生徒数が31名もおり、学齢を経過した者もいた。生徒には、他の家に奉公している者もいた。参加する理由として、学問の必要性や社会の要求などもあったが、動機は、海外渡航者の次のような書面であった。「学問なき為め、他人より多き労働と少き賃金と軽蔑とを受け居れり」。それまでに、50人以上の移民を出しており、明治42年にメキシコやハワイから字の発展のため書状と多額の寄付が送られてきた。東江でも、学事奨励会が盛んに行なわれた時代である(前掲書)。

明治30年頃には、東江・大兼久・城の三ヵ村の人口が年々増加し、名護というと名護間切全体の総称ではなく三ヵ村をさしていた。そのこともあってか、同36年に東江村と大兼久村、それに城村が合併して名護村となった。合併はしたものの、祭祀や村行事まで合同で実施するには至らなかった。その後、明治41年に「沖縄県及び島嘆町村制」が施行され、名護間切は名護村になり名護村は字名護になった。明治36年に合併した三ヵ村が、明治42年の議会で再び行政区として分離独立することを決定した。以後、東江・大兼久・城が行政区として成立し、行政区東江は現在につながる。地籍は、現在も未分離のままである。

昭和45年に名護町と久志.屋部・羽地・屋我地村が合併した。東江にあった町役場が、市役所となった。その市役所は、同56年に現敷地に新築移転し業務を開始した。旧市庁舎は整備され、現在名護博物館として利用されている。

東江は市街地の一画を構成し、早い時期から住宅地・商業地として人口が集中してきた。戦後の人口の推移は、グラフに見るように、昭和35年には434世帯・2,202人であった。人口は、その後昭和41年にかけて毎年90人程増えた。あと、同47年にかけて少し増減を繰り返し、同50年前後には3,000人に達した。同52年に一時2,857人まで減少したが、それ以降、埋立地の宅地化やアパートなどの建設を背景に人口も徐々に増え、昭和60年現在3,162人を数える。その結果、25年前に比べて1.4倍に増えている。世帯数は、徐々に増え続け、現在940世帯に達している。この25年間で2.2倍に増えたことになる。

東江の産業の現状を産業別就業者の構成について見ると(同表参照)、就業者1,338名の内、第1次産業3%、第2次産業22%、第3次産業75%という椛成で、第3次産業の就業者が4分の3を占めている。この構成はここ10年変わっていない。第2次産業は建設業(56%)が多いが、製造業(41%)も少なくない。大きな比重をもつ第3次産業では、卸小売業(39%)とサービス業(39%)に従事する人が大半を占め、公務(9%)・運輸通・信業(7%)・金融保険業(4%)の順になっている。

比重は小さいが、農業について見ると(農業雄本統計表参照)、現在農家は15戸で、全体で約14haの経営耕地面積を持っている。作物では、パイン・果樹が中心であるが、近年花き類が伸びている。また、東江原では団体営圃場整備事業(16ha)が着手された(昭和59~64年度計画)。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の御嵩として、「由来記」(1713年)の名護村の項に、テンツギノ嶽(神名イベヅカサ)が記される。また、名護ノロ火神と神アシアゲもあり、どれも名護ノロが祭祀を司った。当時の月々の祭祀は、一覧表の「由来記」記事に見る通りである。

現在、集落の南の山をティラヤマ、東の山をジンガムイと呼び、集落内にはそれらを遥拝する拝所がある。ティラヤマの遥拝所の近くに、海で亡くなった人を祀ったキッチャという拝所がある。公民館の隣に獅子舞いの獅子を保管するシーシーヤー、さらに東にニガミヤー・ビジュル・クバヌシチヤーがある。拝井泉としてジンガガーがある。

現在、ノロと根神がおり、部落の御願は根神が、ナングシクの御願はノロが司る。根神はニガミヤーから出る。

現在も続く伝統的年中行事は、表に見るように、旧1 月3日のハチウクシー、7月のエイサー、8月の豊年祭、9月9日のキク酒、10月のピーヌウガンなどがある。

芸能

東江は芸能の盛んな所で、公民館がすぐに豊年踊りの舞台になるように造られている。

踊りは旧8月15日を正日に3日間行なわれ、3日間とも道ジュネーで集落内を回って踊りに入る。舞台では、まず長者の大主、次に獅子が舞い、踊りに入る。獅子はそのあとにも2回舞い、2回目には他にない猿舞いもいっしょに出る。女踊りの上与那覇節も独特の踊りで、節も歌詞も他にない。組踊もやっていて、「花売之縁」「久志の若按司」などを得意とする。

旧盆には、青年会を中心にしたエイサーもあり、部落内のアジマー(四つ辻)で、にぎやかに演じられる。

文化遺産

王府時代、間切番所がおかれた東江には、年を経た老樹名木がいくつかある。名護番所の敷地は、近代になって名護村役場→名護町役場→名護市役所と、ずっと役場(役所)の歴史を歩み、現在は名護博物館として利用されている。この名護番所跡には、敷地を囲むようにして推定樹齢300年の見事な福木6本が生育している(昭和49年3月18日県天然記念物指定)。

また、国道58号線に面してミフクラギ(オキナワキョウチクトウ)の巨樹がある。5月頃から白い花を樹一面に咲かせる。樹高11m・推定樹齢200年で、日本最大のミフクラギといわれる(昭和48年6月15日市天然記念物指定)。このほかにも、北部土木事務所前のガジマル(推定樹齢150年)、名護尋常高等小学校跡の福木(同150年)、名謹郵便局前のガジマル(同100年)など、立派な名木がある(名護市の名木)。

行政区域は大東区に入るが、幸地又に貴重なハル石が2基現存している。それぞれ「ウ・かうち原」「ち・かうち原」と刻まれ、当時設置された状態で残されている。

地域史料として、比嘉家Iこ「六諭衍義」[りくゆえんぎ]の写本(1853年)が伝えられる。名護博物館の前庭に名護親方程順則聖人像が建っているが(昭和41年建立)、「六諭衍義」を中国から持ち帰ったのが名護親方程順則(1663~1734)である。時の将軍徳川吉宗に献上され、その和訳本は教化と手習いの教科書として、江戸時代の末まで全国各地に普及され、用いられた(名護碑文記)。

東江に伝わる伝説から、次の一話を紹介する。

東江の遺念火

昔、久志に役場の使いで名護に通う男がいた。いつも途中で、水を汲んでいる娘に会った。娘はたいへん美しく、いつしか二人は恋仲になり、毎晩ジンガ森近くのウミモーシガーという所で会っていた。しかし、その仲を親が反対し、娘の知らない所で男を殺してしまった。娘はいつものように待っていたが、男はこない。変に思って男の村を訪ねた。そこで殺されたことを知り、娘も自害した。

それから、ジンガ森の近くには二つの遺念火が出るようになり、二つ並んで森を下り、そのあと一つは久志に、一つは東江に下りていったそうだ。(昭和54年民話調査より)

東江小年表

1882年 4月名護小学校創立。

1889年 大兼久より国頭役所移転。

1899年 2月名護尋常小学校、生徒増加のため増築。

3月東江村生徒、蛍雪館を設ける。

4月アダン川に石橋を架ける。

6月元の村屋に夜学校設立。

8月東江海岸に「龍糞」打ち上がる。

1903年 6月国頭税務署、東江村に移転。

1905年 5月名護小学校内に補習科設置。

1907年 3月東江農学会、学事奨励会を設立。

6月旧五月御祭に農産物の品評会を開く。

1909年 1月メキシコ移民より学事奨励会に寄付あり。

4月ハワイの東江松蔵等から学事奨励会に寄付あり。

8月行政区東江に復する。

12月名護尋常高等小学校増築落成。

1922年 3月名護小学校新築落成。

1925年 7月神戸で開かれた絹業博覧会で岸本カメ、繭の2等に入賞。

1932年 4月名護小学校創立50周年。

1935年 4月国頭郡畜産組合、東江兼久に家畜市場を設ける。

1944年 4月名護校第1校舎独立して東江国民学校となる。

7月暁部隊、造船用材として銭川森の松林(風致林)を伐採する。

1945年 2月幸地又に食肉加工工場竣工。

1950年 4月東江校校地拡張。

1956年 4月東江校、東江袋の新校舎に移転。

1957年 1月東江公民館落成。

1969年 4月東江幼稚園開園。

1973年 6月東江のミフクラギ、市の天然記念物に指定。

1974年 7月東保育所オープン。

東江の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

2.22 新年会・ハチウクシー(旧1.3)

3. ▲ 学事奨励会* 今は各班で

4. ▲アブシバレー、家畜品評会

5.25 区民運動会

▲稲穂祭三日崇(由来肥)

▲稲穂祭(由来記)

▲山留(由来記)

6. ▲産業共進会

▲年浴(由来記)

7.2 カーウガミ(旧5.15) *各門中

▲海神祭(由来記)

8.30~31 エイサー(旧7.15~16)

▲柴差(由来記)

9.27~30 豊年祭(旧8.13~16)

▲ミヤ種子(由来記)

10.22 キク酒・クングヮチ九日(旧9.9)

10.22 敬老会(旧9.9)

11. ピーヌウガン(旧10・吉日)

▲芋ナイ折目(由来記)

*運営委員は月2~3回、代議員会は決議事項のある場合に開催

*婦人会。成人会は月1回ほど開く

*各部は必要に応じてもつ