勝山のあゆみ、小年表

勝山 小年表

1820年代 士族の入植始まると伝える。廃藩 置県後、首里・那覇からの移住者増えたという。

1916年 猫川から初の村会議員を出す。

1918年頃 製糖小屋10カ所(三輪鉄車)。

1924年 安和・山入端から学事奨励会独立、 次いで婦人会が独立。

1930年 製茶工場設置。

1933年 猫川青年団結成。

1942年4月 安和・山入端にまたがる猫川に行政区勝山を設定(80戸、250人)。

11月 部落体錬場竣工。部落錬成大会を開催。

1945年 宇土部隊の一部配備される。

4月 本部半島に上陸した米軍、勝山でも掃討戦を展開。住民は田井等収 容所に収容され、10月末帰還が許され る。

1952年5月 公民館に電話開通。

1962年2月 羊魂碑建立。

1967年8月 電灯入る。

1972年 嘉津宇岳・安和岳・八重岳一帯自然 保護区(天然記念物)に県指定される。

1986年5月 勝山集落センター落成。

勝山区のあゆみ

先史~古琉球の勝山

遺跡が確認されていないので、その頃の勝山については分からない。

近世の勝山

伝統的な村ではないため、近世の頃のことは分からない。ただ、嘉津宇岳のことが文献に見える。「おもろさうし」に、「かつおうたけ」「かつおたけ」と見え、「中山伝信録」には、「佳楚山」と見えるのがそれであろう。嘉津宇岳は方言で、カチューダキというが、その地名は岩山を意味しているという説がある(宮城真治:沖縄地名考)。

伝え話によると、昔、本部大主がフルシ岳の断崖の中腹にある洞窟の中に住んで、猪をとって生活していたという。そのフルシの近くに部落の発祥とかかわるマヤーガーがある。

近現代の勝山

この山地に人が増えたのは、明治12年の廃藩置県後のことである。職を失った首里・那覇の士族たちが移住し、この地で農業を営み始めた(勝山誌)。

明治20年頃から藍作りが盛んになり、ここでもその栽培と製造が行なわれていた。その藍壷は今も残っている。それと同時に山羊の飼育が盛んになり、後に山羊の里として有名になり、「羊魂碑」も建った。

士族が多く住んだこの地域では、移住後すぐに村学校が開設され、最初に有銘タンメーが教師として招かれた。初めのうちは男だけが夜学んでいた。有銘タンメーのあとにきたのが、照屋のタンメーで、勝山の人たちに「学校所のタンメー」と親しまれた。その頃から公教育も始まり、勝山の子供たちもそこに通うようになったが、夜学校も続けられた。それを閉じたのは、大正になってからのことであった(岸本喜順:名護碑文記)。

勝山の人が安和の学校に通うのは容易なことではなかった。特に西又の生徒が安和に行くためには、ターラバンタ道というたいへん危険な道を通らねばならなかった。その道を開削したのは、西又33戸の人たちであった。昭和3年の5月末に着工したものの、難工事のために、開通を見たのは昭和5年の1 月であった。着工した年がちょうど御大典の年に当たったので、道路脇に「御大典紀念道路碑」を建てた(前掲普)。

行政区は安和・山入端に属していたが、生活習慣などで、安和や山入端と異なっていたので、大正の頃から独立の動きがあった。まず、大正13年に学事奨励会と婦人会が誕生した。昭和8年には猫川青年団が分離独立した。そのような動きがやがて区としての独立につながった。昭和17年、戦時体制が強まる中、嘉津宇岳の「カツ」を取り「勝」の字を当てて勝山とした。初代区長は比嘉辰正氏であった(勝山誌)。

また、その頃、青年団は名護町青年団の陸上競技大会でも活躍していた。しかし、勝山には陸上競技を練習できる広場がなく、遠く安和小学校に通っての練習だった。そこで、当時青年団の指導者だった真栄田義孝氏を先頭に、100mコースのとれる運動場の建設に立ち上がった。氏自らの土地1,450坪を寄贈し、青年団の手によって、昭和17年に区民運動場ができた。その年の10月、運動場びらきとして区民大運動会が催された。今それを記念する碑が、公民館の前に建ち、昭和62年に45年ぶりの区民運動会が行なわれた。

区が独立し、運動場が開設したものの、昭和18年頃から戦時体制が強化され、運動会も開けなくなった。同20年4月、米軍が本部半島に攻め入り、宇土部隊の陣地が近くにあった勝山では掃討戦が展開され、ほとんどの住居が焼かれてしまった。収容所などに入っていた住民も11月には戻り、部落の復興に努めた。昭和21年、屋部村の独立により、屋部村に編入された(勝山誌)。

屋部村になって行なわれた原山勝負では、昭和24年から4年間、山の部で優勝している。昭和27年、公民館に初めて電話が入った。電灯が灯ったのは、それよりも15年も後、昭和42年のことである(前掲書)。

現在も、元旦の日の出を見る登山客の多い嘉津宇岳は、古くから景勝地であった。明治43年の新聞に「国頭旅行」という記事があるが、その中に「まづ行くべき所は嘉津宇嶽(岳)…」とある。また、大正5年の記事を見ると、名護村内4小学校の職員で、嘉津宇岳登山の遠足会をしている。さらに、大正6年の記事は「鶯の声が水声に交って冷気が身に沁みるし、琉球のアルプスともいうべき嘉津宇の連山……」とも賞している。そして、昭和10年には、その山麓の町有地約10万坪にゴルフ場の建設計画も出た。これは県内で初めてのことであったが、実現されなかった(戦前新聞集成1,2)。

最近、勝山と市街地を結ぶ道路の整備が進み、交通の便もよくなった。構造改善センタ-の開設で部落が活気づき、ラン栽培の大規模なハウスも建設された。

出典:「わがまちわがむら