我部のあゆみ、小年表

我部の小年表

1736年 蔡温の山林政策により、現今帰仁村湧川下我部から屋我地島に移される。

1738年 跡地に今帰仁間切湧川村を創建。

1870年頃首里の士族が前垣を中心に移り住み屋取を形成。

1904年 宮城源信医師、我部の大城栄保宅で開業。

1920年 前垣に天理教教会設立。

1931年 大池原が行政区運天原となる。

1944年10月 10.10空襲の際、運天港の海軍基地攻撃の余波をうける。

1945年3月 前垣浜一帯に大型爆弾が落され、我部平松の避難壕が直撃され婦女子8名の死者を出す。

1978年10月 我部公民館完成(60坪)。

屋我地西部地区土地改良事業若手。

1983年 我部平松の歌碑建立。

出典:「わがまちわがむら

我部のあゆみ

先史~古琉球の我部

古琉球の我部は、現在の今帰仁村湧川の下我部の地にあったと見られるが、移動前の集落跡についての詳細は不明である。故地の湧川の下我部にシチャガブ遺跡があり、沖縄貝塚時代前期の遺跡で土器片や貝殻などが採集されている(今帰仁村の遺跡)。現在の我部地内に、これまでのところ遺跡は確認されていない。

近世の我部

近世の我部付は羽地間切の村だが、17世紀中頃の「絵図郷村帳」や「高究帳」には今帰仁間切「がぶ村」とあり、今帰仁間切に属した。 1690年頃今帰仁間切から羽地間切へ管轄が移ったとみられる。その後、1736年の蔡温の山林政策に伴った村落移動があり、その時に湧川地内から屋我地島の現在地に移動した。村落移動はしたものの、御獄はそのまま旧地に残してきた。

1691年に羽地郡(間切)松田村が、我部村に属する(球陽)とあるが、その後の18世紀中頃の「御当国御高並諸上納里積記」や「琉球一件帳」でも松田村が出てくる。我部には、松田アシアゲがあり、近世後半の合併とみられる。

ところで、琉球における製塩の始まりは、 今帰仁間切の我部村で「我部の塩屋」と言われ、地域の伝承によると上古に日本人が来て教えたといわれる。また、薩摩軍の琉球入りのとき兵の中に坊主がいて、隊から外れ湧川の下我部の岩穴に住みつき、村の人たちに塩の作り方を教えたのが始まりだという伝説も ある。また「由来記」には、村が衰微して塩を煮る暇がなく、王府に訴えて塩炊きをやめたという記事がみられる。

1812年(嘉慶17)羽地間切の我部村と松田村二ヵ村の模合塩浜は、首里王府の田畑から収極する総高や諸知行などを取り仕切る高所かき、この節上木高(うわきだか)(雑税の一つ)として、当年から毎年12月まで塩1斗6升6合6勺6 才(銭13貫文)を納めること。また、閏年に は一ヵ月分多くだすように仰せつかった(地方経済史料)。塩は棕櫚(しゅろ)と同様、現物納として明治期まで義務付けられた。

近現代の我部

近代の我部の人口は、明治13年に戸数87、人口492人(内男251)であり、同年36年には698人(内男343)と1.4倍に増えている。 平民317人、士族386人で、士族人口が55% を占めている点に大きな特色がある。この間の人口増は士族の転入によるところが大きい。 寄留士族は、主に前垣を中心とする西側区域に散在して住んだ。また、下って昭和14年には戸数94、人口428人(内男157)を数える。 明治13年からの60年間に人口がやや減ったの は、饒平名と同様、昭和6年に地内の大池原が割かれて運天原が独立したためと思われる。

戦後の人口の推移は、グラフに見るように、 昭和38年は430人、昭和60年には298人となっている。昭和44年頃からやや減少傾向となり、ここ20年間に約30%ほど減っている。

明治の廃藩置県の頃、那溜から寄留してきた士族によって塩づくりがなされた。明治27年の「沖縄統計課」をみると、我部の製塩業を営んでいる戸数83、従業者数245、塩田面積47反、生産高241石である。戦後間もないころまで行なわれてきた製塩業も、今は塩田跡を残すのみとなった。塩を盛んに造っていた頃は、今帰仁村の村々でも塩売りの姿がみられた。天底には、我部の前垣のマース売りの通る道があり、その道をメーガキミチ(前垣道)と呼んでいる。往時の塩を担いで通る姿が偲ばれる。

大正5年の「琉球新報」の記事に、納税表彰式が羽地小学校で行なわれた時、我部が国頭郡長から優良字として表彰されたとみえる。

昭和20年3月米軍機による爆撃があり、壕に避難していた住民を直撃し、11名の命が奪われた悲しい出来事があった(名護碑文記)。

我部の現在の産業は(就業者構成表参照)、 就業者136名の内、第1次産業46%、第2次産業21%、そして第3次産業34%という構成で、第1次産業(農業)の比重が大きい。ここ15年間の動向は、第1次産業はほぼ同じだが、第3次産業(とくにサービス業)がやや伸びてきた。

農業の推移について見ると(農業基本統計表参照)、ここ15年の間に農家数は69戸から44戸へと3分の2に減った(とくに第2種兼業農家に著しい)。現在、我部全体として経営耕地面積は約60haで、やや増えている。1 戸当たりの経営面磯は82aから137aへと約1.7倍も増えた。 基幹作物はキビに変わりはないが、このところパインが増えてきている。集落の北側に広がる丘陵の谷の低地は、以前水田に利用されていたが、昭和40年代後半に水稲作は消滅した。丘陵一帯で実施された大規模な屋我地西部県営畑地帯総合土地改良事業(147ha、昭和51年度完工)により、農地の基盤盤備が進み、今後の農業振興に大きな期待が寄せられている。なお、現在畜産はふるわない。

出典:「わがまちわがむら