我部の人口と産業

近代の我部の人口は、明治13年に戸数87、人口492人(内男251)であり、同年36年に は698人(内男343)と1.4倍に増えている。 平民317人、士族386人で、士族人口が55%を占めている点に大きな特色がある。この間の人口増は士族の転入によるところが大きい。 寄留士族は、主に前垣を中心とする西側区域に散在して住んだ。また、下って昭和14年には戸数94、人口428人(内男157)を数える。 明治13年からの60年間に人口がやや減ったのは、饒平名と同様、昭和6年に地内の大池原が割かれて運天原が独立したためと思われる。

戦後の人口の推移は、グラフに見るように、 昭和38年は430人、昭和60年には298人となっている。昭和44年頃からやや減少傾向となり、ここ20年間に約30%ほど減っている。

明治の廃藩置県の頃、那溜から寄留してきた士族によって塩づくりがなされた。明治27年の「沖縄統計課」をみると、我部の製塩業を営んでいる戸数83、従業者数245、塩田面積47反、生産高241石である。戦後間もないころまで行なわれてきた製塩業も、今は塩田跡を残すのみとなった。塩を盛んに造っていた頃は、今帰仁村の村々でも塩売りの姿がみられた。天底には、我部の前垣のマース売りの通る道があり、その道をメーガキミチ(前垣道)と呼んでいる。往時の塩を担いで通る姿が偲ばれる。

我部の現在の産業は(就業者構成表参照)、 就業者136名の内、第1次産業46%、第2次産業21%、そして第3次産業34%という構成で、第1次産業(農業)の比重が大きい。ここ15年間の動向は、第1次産業はほぼ同じだが、第3次産業(とくにサービス業)がやや伸びてきた。

農業の推移について見ると(農業基本統計表参照)、ここ15年の間に農家数は69戸から44戸へと3分の2に減った(とくに第2種兼業農家に著しい)。現在、我部全体として経営耕地面積は約60haで、やや増えている。1 戸当たりの経営面磯は82aから137aへと約1.7倍も増えた。 基幹作物はキビに変わりはないが、このところパインが増えてきている。集落の北側に広がる丘陵の谷の低地は、以前水田に利用されていたが、昭和40年代後半に水稲作は消滅した。丘陵一帯で実施された大規模な屋我地西部県営畑地帯総合土地改良事業(147ha、昭和51年度完工)により、農地の基盤盤備が進み、今後の農業振興に大きな期待が寄せられている。なお、現在畜産はふるわない。

出典:「わがまちわがむら