年表 1700年代~1800年代(明治以前まで)

1700年代~1800年代(明治以前まで)

参考文献:5000年の記憶 名護市民の歴史と文化

1702年 薩摩、琉球地図を幕府に献上

1708年 蔡温、貢使として渡清し、地理風水を学ぶ

程順則、『六諭衍義』を福州で板刻し琉球に持ち帰る

1713年 『琉球国由来記』編集される

1714年 7代将軍家継の慶賀使を派遣 程順則、江戸上りの際、新井白石・萩尾徂徠と会見する

1715年 程順則、帰路近衛家熙と面会し、また薩摩で木村探元の画に賛を書く

1715年 程順則、久米村総役となり三司官座敷に列なる

1716年 [日]吉宗、将軍となり、享保の改革を行なう(~1735)

1718年 久米村に明倫堂を創建する

玉城朝薫、組踊をつくる

1719年 冊封使節団来琉 評価(ハンガー)事件おこる

御冠船踊り始まる

1720年 冊封使帰国 謝恩使派遣(紫金大夫・程順則)蔡温、三司官座敷になる

1721年 初の漢詩集『中山詩文集』上梓(程順則編/1725年刊行)

徐棟光、『中山伝信録』刊行

1724年 蔡温、『中山世譜』を増補改訂(~1725)、

以後1876年まで書き継がれる

1725年 蔡温、「服制」を改定する

1726年 尚敬王、山北を巡視する

1728年 蔡温、三司官となり国師を兼務する

程順則、名護間切総地頭となる

1729年 宮古・八重山の役人に家譜の編集を許す

1731年 『琉球国旧記』20巻なる

1732年 蔡温、「御教条Jを発布する

「位階定」を布達する

1734年 蔡温ら、「農務帳」を公布する

1735年 暴風雨のため羽地大川(当時は大浦川と呼ぶ)決壊し、下流域に大きな被害。

蔡温の総指揮により大改修工事、3カ月で竣工する(9~ 11月)

蔡温、植林を推奨する

墓地制限令がでる

山奉行と津口勤番を初めて各地におく

浴みしの御願を6月25日、ムーチー折目を12月8日、柴指を8月10日と日を定める

1736年 国中の河川を改修する

蔡温、村落の新設・移転を行なう

振慶名・呉我・桃原・我部・松田、現在地に移転させられる

久志間切に大鼓村を新設1781年富久地村、1817年宮城村に改称

柚山の測量が始まる(数年後「杣山針図帳」なる)

1737年「山奉行所規模帳」「杣山法式帳」を公布

敷地・家屋の制限を行なう

元文検地始まる(~1750)

山入端、古山入端原から安和兼久に移ると伝える

1742年 羽地間切、元文検地を実施する

1744年 羽地田井等に「改決羽地川碑記J建立

1745年 『球陽』『遺老説伝』なる

1747年 蔡温、「杣山法式仕次」を布達

山奉行野村里之子親雲上、「樹木播植方法」を進達する

久志間切の川田。大川に船改所を設ける

1750年 元文検地終わる

「三府龍脈碑記」、名護に建立

1751年 杣山取締内法を制定する 「山奉行所公事帳」「山奉行所規模帳仕次」布達される

蔡温、「山林真秘」を著す

1752年 蔡温・毛恭倹、三司官を辞す

1759年 豊川親方正英、『六諭街義』を和解する

1771年 明和の大津波(宮古・八重山で遭難者1万1861人)

1776年 [世]米国、独立宣言

1778年 尚穆王、中頭・国頭の杣山を巡視する

1786年 「琉球科律」制定される

1789年 [世]フランス革命

1793年 三司官伊江親方、中頭・国頭の杣山を巡視する

1798年 首里中城御殿に公学校所(国学)創設

首里三平等に平等学校所を創設

1814年 初めて豊見城間切で原山勝負が行なわれるという

1815年 伊平屋・久米島に雪雹降り農作物の被害甚大

1816年 英艦ライアラ号・アルセスト号来航し42日間滞在(艦長バジル・ホール)羽地内海一帯を調査する

1820年 総山奉行を廃止する

この頃、古我知焼の窯をとじる

1821年 羽地間切に下知役設置(~1836)

1825年 [日]異国船打払令

1827年 前年の暴風雨のため大飢饉 4年連続の飢饉で餓死者3358人

1830年 「改決羽地川碑記」再建

1834年 久志間切に下知役を設置

1835年 この頃から、16万貫を王府に御借上することによって、

無系の百姓が士籍に昇るようになる

1840年 [中]アヘン戦争

1843年2月 沖縄島南部に雪が降る

1846年 フランス艦クレオパトール号・ビクトリュース号他1隻、那覇に来航し通航・貿易を要求する。今帰仁の運天港に来航する。船員2人が亡くなり、屋我地の運天原に葬られる(オランダ墓)

1847年 薩摩藩、王府と外国との貿易を許し、布教を禁じる

1850年 [中]太平天国の乱(~1864)

1851年 宇久親雲上、屋我地で種痘の種子をつくる

1853年4月 米海軍提督ペリー、サスケハナ号以下3隻で那覇に来航(12月に再度来航)

名護湾の海図測量、羽地間切番所(天体測量)、羽地大川を踏査する

1854年6月 ペリー、三度来航、琉米修好条約に調印

1855年10月 琉仏修好条約締結

1856年 [米]ペリー監修、ホークス編述『日本遠征記』、ハイネ『日本渡航記』、米国で出版される

1858年 屋我村は風水がよくないとして、西米耶原(墨屋原)に村落を移す

1859年6月 琉蘭修好条約締結

この年、羽地間切に指揮司をおく

1861年4月 [米]南北戦争勃発(~ 1865年4月)

1864年 辺野古村の船が中国の浙江省定海県に漂着する

1866年6月 最後の冊封使来琉(寅の御冠船)

1867年10月 [日]徳川慶喜、大政奉還