川上

川上区の現況

世帯数:257世帯 人口566人 面積1.88k㎡ (2017年現在)

川上は方言でハーミと呼ばれ、「おもろさうし」では「いちへきかわかみ」(意気地川上)や「ちやくにかわかみ」(大国川上)と謡われている。旧羽地村の中部、羽地大川が平野部に出たところに位置し、集落の南側には多野岳をはじめ、羽地の山並みが連なる。

ホードゥヌバーリ(谷田原)とハーミ(川上)に集落の主要部があり、ほぼ碁盤目状の形態をなす。ホードゥヌバーリは、近世後半まで谷田村があったところである。イニンサ(胸佐)とハーラブック(クカル袋)に水田が広がり、ハネジターブックワ(羽地田袋)の一画をなしている。

主な施設に、ライスセンターがある。

川上集落センター 名護市川上3番地

川上区のあゆみ

先史~古琉球の川上

川上には、親グスク遺跡や川上遺跡、それに谷田遺跡が確認されている。親グスク遺跡は集落の南側山地の中腹にあり、ウェーグスク(親グスク)と呼ばれる部分は平坦になっていて、北側斜面に石垣の遺構と見られる部分がある。川上遺跡は公民館の西側斜面にあり、グスク時代の土器片が採集されている。

谷田遺跡は、ホードゥヌアサギのある小高い丘とその北側の低地に広がる。赤瓦や沖縄製陶器、線刻蓮弁文の青磁、14,5世紀の染付・白磁、それにグスク時代の土器や南蛮陶器などが採集されている。グスク時代後期から古琉球・近世にかけての遺跡である(名護市の遺跡2)。

近世の川上

17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」に「川上村」と見える。「高究帳」の石高は268石余り(うち田264石余、畠3石余)で、羽地間切では真喜屋に次いで規模が大きい。

「由来記」(1713年)によると、羽地間切には五人の夫地頭[ぷじとう]がおり、その一人が川上大屋子を名乗り川上村を扱い村とし、川上に吸収された谷田村には谷田掟の役職がついた。

羽地大川は、大洪水のあと雍正13年(1735)蔡温によって国家的事業として改修工事が実施された。田井等のピームイ(碑文森)に、改修8年後の乾隆9年(1744)に碑が建立された。その後1820年に再建された碑が今に残っている。しかし、それも字が摩耗しほとんど読めない。

「羽地大川修補日記」(1736年)によると、雍正13年(1735)7月に大雨が降り、大洪水となった。今回の水損は羽地間切では手に負えず、王府に修補(復旧)を願い出た。それを受けて、王府は蔡温を総指揮者として多くの役人を羽地に派遣した。その工事には、羽地間切はもとより、山原の各間切や離島の伊江島からも人夫(夫役)が徴用された。80日余りの間で、延べ人数にして10万人以上の人員を要した大工事であった(仲原弘哲:名護碑文記所収)。

近現代の川上

近代の川上の人口の動きを見ると、まず明治13年には戸数86、人口453人(内男232)である。同36年には653人(内男332)で、この間人口は1.4倍に増えている。また、同年の平民人口636人に対して士族は25人(3.8%)で、羽地間切の他の字同様低い割合である。下って昭和14年には戸数133、人口620人(内男227)を数え、その60年前と比較して戸数で1.5倍、人口では1.4倍の伸びを示している。

戦後の人口の動向は、推移グラフに見るように、昭和35年は558人で、その後同41年頃から少し減り始め、昭和60年には500人を数える。25年前に比して1割程減ったことになる。世帯数はほとんど変わらず、やや増えて昭和60年には147世帯である。

現在のハーミ(川上)は、かつての「あしはら原」を包括する総称である。明治14年川上村で屋敷地拡張の問題が起こり、地理師の与謝親雲上を招聘して調査させたところ、同村の「まかく原」がよいとのことであった。ところが、土地の交換がうまくいかず、あしはら原に移すことになった。あしはら原を区画整理して新しく屋敷地とした。明治14年の見取図には50軒あったという(宮城真治:あしはら原の開拓)。

蔡温の時代に改修された羽地大川は、明治30年から40年代にかけて再び大きな問題として取り上げられる。「羽地の沃野を過ぎ行けば鮎に名高い大川よ」と謡われた羽地大川は、度々氾濫を起こした。明治39年と同43年の大決壊以降、羽地大川の改修は重要かつ緊急の地域課題であった。足掛け10年の検討を経て、大正5~6年に改修と耕地整理事業の計画に結実した。大正5年の夏には県技手による調査がなされ、同7年に「羽地大川耕地整理組合」が認可された。改修工事は大正8年に着手されたが、第一次世界大戦の余波を受け事業遂行に大きな障害となった。仲尾次側への新大川の開削は同11年の秋に完成した。しかし、その後もしばしば大洪水に遭い、落差工や分水堰などが破壊され、お手上げの状態となった。昭和7年になってようやく事業の一部が復活し、同9年には「羽地村中部土地改良組合」が結成され、新大川の護岸工事などが実施された。すべての事業は、昭和13年に至って完成した。昭和46年には、この耕地整理と羽地大川の改修事業に功績のあった人たちの顕彰と、名護市合併を記念して「羽地大川改修顕彰碑」が公民館の広場に建立された。現在、羽地大川の上流域で多目的ダムの建設が計画されている。

川上の産業の現況を見ると(就業者構成表参照)、就業者192名のうち、第1次産業40%、第2次産業21%、第3次産業39%という構成で、第1次と第3次がほぼ同じ比重をもっている。15年前に比べると、第1次産業(農畜産業)が減る一方、第3次産業が増えている。この傾向は昭和45~50年に定着したが、ここ5年は農業が復活する動きにある。

就業者の4割を占める農畜産業について見ると(農業基本統計表参照)、耕種ではキビと水稲。野菜類・施設園芸が重要作物で、畜産では養豚に加え、肉用牛の多頭飼育が急速に伸びてきた。

ここ15年間を見ると、農家数は15%ほど減った。経営耕地面積は、全体として10%減っているが、それは主として水田の減少(約3割に減)によるもので、その他の主要作物に大きな変化はない。かつてのハネジターブックヮ(羽地田袋)の大美田はすでに昔語りになったが、現在川上は田井等に次いで水稲の収穫面積が多い(クカル袋)。昭和53年度には地内にライスセンターが設置されている。

新しい動向として、施設園芸や野菜づくりが伸びており、また畜産では肉用牛飼養が急成長していることが注目される。

伝統文化

拝所と祭記

川上の近世の御嶽は、「由来記」(1713年)の川上村の項に川上之獄(神名カワカシラノ御イベ)があり、中尾村の項に谷田之嶽(神名ニヨフモリノ御イベ)が見える。さらに、谷田村にトモノカネノロ火神と神アシアゲが、川上村に神アシアゲがある。それらの拝所での祭祀は中尾ノロとトモノカネノロが司った。当時の月々の祭祀は一覧表の「由来記」記事に見るとおりである。

現在、川上にはウガンバラウターキ(御願原御嶽)とミューガンと呼ばれる重要な拝所がある。集落の北にあるウガンバラウターキは、仲尾と共有する御嶽で、ホードゥヌアサギにウトゥーシジュ(遥拝所)がある。また、その近くにはホードゥヌニガーミ火神とウペーフヤーがある。公民館が建つ丘には、ハーミアサギ・ウッチヤー、そしてミューガンヘのウトゥーシジュがある。そのほか、ウプヤニガーミ・ギャータニガーミの火神とハミダーが二つある。川上ヌルは上原系統から、男の神役はシマブクヤー・イーブ等の旧家から出る(国頭の村落)。

現在も続く伝統的年中行事は、表に見るように、旧1月10日のトウカウガン、4月最後の子[ね]の日のアブシバレー、5月のウーマチーウグヮン、6月のヒチュマ・アプマチウイミ、盆後初の亥[い]の日のウンギャミ、8月10日のウグヮン、9月8日のミャーダニ、同9日のクングヮチクニチ、11月のウンネー・ハママイなどがある。

芸能

豊年踊りは、旧8月8日を正日に3日間行なわれる。以前は公民館裏の広場で催していたが、今は舞台設備のある公民館で行なっている。総踊りを初めに、長者の大主・女花笠・上り口説など10以上が演じられ、最後に高平良万才でしめくくる。戦前は「花売りの縁」「伏山敵討」「久志の若按司」などの組踊も演じられた。

川上の芸能で特に有名なのは、9日の別れの日に演じられる「あやつり獅子」で、県内でも珍しいとされる。

文化遺産

川上には、指定を受けた文化財はないが、旧8月の豊年踊りの折りに演じられる「あやつり獅子」はユニークな伝統芸能として知られ、本土でも公演したことがある。

かつて川上周辺の丘には、見事な老松が生い茂っていたという。現在もその面影が僅かに残っているが、ホードゥヌ(谷田)アサギの二本の老松はその代表である。大きい老松は樹高13m、推定樹齢240年を経ている(名護市の名木)。

川上でもハル石が二基確認されている。一つは「た・こくてん原」と刻まれ、今ひとつは上原神屋の側の「ヱ・さ□原」(さた原?)という文字のあるハル石である。元の場所から移されてはいるが、いずれも貴重な近世の物的史料である。

多くの地域史料が伝わり、これまで32点が確認されている。親川家には、「家内肝要日記」(1848年)をはじめ、貴重な家文書類が伝存する。新島家史料も重要である。3点の仕明地史料、また「家流記」(1866年)をはじめとする民俗史料は貴重である(小川徹:羽地落穂集)。なお、川上区の史料として「年中祭祀費賦帳」(昭和11年)がある。

川上の小字一覧

ハーミ[川上/川上]

メータ[前田/前田]

ホード(ヌバーリ)[谷田/谷田]

ミジャシマタ[ミザシ又/ミサシ又]

ジョーマシ[上増/上増]

イニンサ[胸佐/胸佐]

ファーラブック[クカル袋/クカル袋]

ティーマゥィ/ファーラビ[クカルエ/クカルエ]

マガク[マガク/マガク]

アプマタ[大又/大又]

イニシキ(マタ)[稲搗/稲搗]

川上は11の小字からなる。ハーミが集落の中心をなし、明治14年に屋敷地拡張に伴い50軒がここに移ってきたという。ファーラブックは羽地でも有数の水田である。東のファーラビは羽地大川の出口に当たり、羽地田袋に水を引くビー(堰)をここに設けたことに因む。ミジャシマタのホードヌアサギ付近は谷田遺跡でもある。

川上小年表

1735年 大雨のため羽地大川決壊、下流域の被害甚大。蔡温総指揮の下に羽地大川改修工事に着手。3カ月で竣工。

1750年 あしはら原、谷田・川上両村の模合仕明地として認可。

1816年 川上村、模合仕明地の一部を新島屋に譲渡。新島屋開田を進める。

1844年 又喜納山での開地作職を願い出る。

1848年 又喜納山の杉敷御禁止敷となり、材木の伐採が禁じられる。

1881年 屋敷拡張の議起こる。百姓地むねさ原・さた原を新島屋のあしはら原と交換し区画整理を行ない新集落を造成。

1907年 北条侍従、川上村の水害地を視察。

1910年10月 大豪雨によりタクジ坂で山くずれ羽地大川決壊。羽地大川改修問題再燃する。

1938年 羽地大川(中部)地区耕地整理事業及び羽地大川付け替え工事完了する。

1947年 行政区山田成立。

1954年 田井等外3字と連合して中部農協を設立。

1970年 羽地大川改修顕彰記念碑建立。

1979年10月 多野岳のホークミサイル基地跡に勤労者いこいの村おきなわがオープン。全国で27番目。

川上の行事。活動一覧 昭和61年1~12月

1.2 交通安全祈願祭

1.5 婦人会*毎月5日定例会

1.9 役員会

1.12 戸主会(予算決算承認)

▲旧1.15 仲地又御願

▲元旦美御拝御井掃除

2.18 トゥカウグヮン(初御願、旧1.10)

2.24 ジューロクニチ(旧1.16)

*各戸で

▲旧2月田植御願

▲旧三月四度御物参(由来記)

4.3 入学児童父兄懇談会

4.21 老人会視察

▲山留(由来記)

5.18 区民運動会

5.20 アブシバレーウグヮン(旧4・最後の子の日) * 仲尾の浜で

5.26 評議員会

6.16 ウマチーウグヮン(旧5.15)

7.24 シチュマ(旧6・吉日)

7.30 アプマチウイミ(旧6.24)

7.31 ウイミ(旧6.25)

8.1 ヤーサグイ(旧6.26)

8.8 評議員会

8.18~20盆踊り(旧7.13~15)

8. ウンギャミ(旧7・盆後初亥)

9.10 豊年踊り(旧8.8)

ワラーミキ(旧8.8)

9.13 ウグヮン(旧8.10)

▲仲地又御願

10.11 ミャーダニウグヮン(旧9.9)

10.12 クングヮチクニチ(旧9.9)

12.15 ウンネー(旧11.吉日)

12.15 ハママーイ(旧11.吉日)

12.22 評議員会

▲ハンカ(旧12.8)

*土地改良の件で適宜理事会をもつ