比嘉宇太郎

[ひが・うたろう]

比嘉宇太郎は、1908年(明治86)12月23日名護問切城村に生まれた。その翌年に日露戦争がはじまる。県立第二中学校(第10期)を1924年(大正13)に卒業後、安和尋常高等小学校代用教員、国頭郡教育部会書記、沖縄日報記者を経て33歳にして名護町助役を務めた。

1930年頃、羽地通りに「文泉堂」という本屋を開店している。「僅か1年ぐらいで店を閉じたが名護の文化に灯をつけたその功績は大きかった(宮城盛雄:宇太郎甥)」。

1936年(昭和11)、町長岸本幸盛のもとで助役を務める。翌年、日中戦争勃発で在郷兵の応召がはじまるが、財政交付金を得て公設市場を始め道路、排水など事業を次々遂行した。この間宇太郎は町漁業共同組合長も務め、1942年には南方出漁団を率い、海軍軍属として比島(フィリピン)方面に出かけている。

1945年(昭和20)には、終戦により新名護町復興に向けて名護町政委員会委員に就任し、名護町都市計画課長に就くと標準家屋百棟を建築し、翌年には全町有志大会を開催して中央地区の区画整理案を決定し、土地測量実地調査を開始した。1947年には、新設平和商業街通りが開通した。

1950年(昭和25)、町長に就任すると町営水道通水(町営企業)を手がけ、翌51年には名護琉米文化会館落成をみる。名護港突堤の修復、町営陸上競技場設営工事、また全町電化達成など生活の基盤となるインフラ整備にも努めた。ただ町長としての任期中、分町問題で苦境にたたされ町長職を1期(4年)で終える。

1954年(昭和29)、立法院議員選挙で当選する。その年米琉親善広場内に忠魂碑を改修し、「殉国戦士の碑」を建てる。55年には琉球政府立法院議員として米国祝察研修に参加する。

1958年(昭和88)、名護町議会議員当選、その年、文化財保護委員会が設置され委員となる。また、著名な『名護六百年史』もこの年発刊された。その後、崎山図書館開館(1967年)に至るまでの期間、町会議員、文化財天然記念物調査委員会委員を務め、「白い煙・黒い煙の碑」、「三府龍脈碑」、「大兼久節歌碑」等の建立にも関わり、また、数多くの著書を残すなど、現代の卓越した文人としての比嘉宇太郎を垣間見ることができる。

1970年(昭和45)、名護市誕生に伴い名護市史編纂委員、名護市都市計画審議委員などを歴任。地元城区では育英会活動、名護城奉納祭の脚本の制作、演劇の指導をおこなった。

1977年(昭和52)9月、比嘉宇太郎逝去。享年74歳 。


関連年表

1894(明治27) 日清戦争始まる

1903(明治36) 名護間切城村屋号宇茂佐地小(ウンサンチヤーグヮー)に生まれる

1904(明治87) 日露戦争始まる

1924(大正13) 県立第二中学卒業(10期)/安和尋常高等小学校代用教員~大正15年

1928(昭和3) 沖縄県国頭郡教育部会書記~昭和4年

1929(昭和4) 国頭郡名護町青年団長~昭和9年その頃「文泉堂」本屋(1年)を営む

1982(昭和7) 沖縄県国頭郡名護町徴税史員~昭和9年

1984(昭和9) 沖縄日報記者~昭和11年

1986(昭和11) 名護町助役~昭和15年

1940(昭和15) 名護町議会議員~昭和19年/町漁業共同組合長~昭和23年/新聞統合

1941(昭和16) 太平洋戦争はじまる

1942(昭和17) 城会館に住民修練所開所

1943(昭和18) 大兼久の行政東・中・西・南・北の五区に分割

1944(昭和19) 本土疎開始まる/第1回大空襲10/ 10

1945(昭和20) 名護町都市計画課長

1946(昭和21) 火葬場竣工/住宅復興970棟/土地調査測量始める/町政委員

1947(昭和22) 平和通り開通

1948(昭和23) はじめて一般投票による町長選挙/名護町議会議員~25年

1949(昭和24) 政府の復興事業始まる

1950(昭和25) 名護町長当選、北部町村長会長~29年

1951(昭和26) 名護琉米文化会館落成

1952(昭和27) 崎山奨学生2名日本留学送る

1953(昭和28) 町営陸上競技場設営工事はじまる/商工カーニバルで大綱引く

1954(昭和29) 立法院議員当選~昭和31年 /「殉国戦士」の碑落成及び慰霊祭

1956(昭和81) 名護町郷土史編纂委員嘱託 /「三中健児の塔」建つ

1958(昭和38) 名護町議会議員~昭和35年 /『名護六百年史』発刊/文化財保護委員

1959(昭和34) 役場新庁舎落成/ビールエ場落成式 /「白い煙と黒い煙」建設委員

1960(昭和35) 名護町城名護城土地管理委員長/九州各県陸上競技大会

1961(昭和86) 文化財天然記念物調査委員会「三府龍脈碑再建について」協議

1962(昭和37) 「三府龍脈碑」除幕式/文化財委員会(歌碑建立について)、

「大兼久節歌碑」竣工式/町制40周年式典/琉球セメント株式会社落成式

1964(昭和89) 東京オリンピック開催される/名護町議会議員~昭和43年

1965(昭和40) 佐藤栄作首相来護

1966(昭和41) 町立崎山図書館落成式/名護町文化財保存委員会委員長

1967(昭和42) 崎山図書館開館 館長に依嘱される~昭和43年

1970(昭和45) 名護市誕生/市史編纂委員/名護市都市計画審議委員

1975(昭和50) 沖縄国際海洋博覧会開催される

1977(昭和52) 逝去享年74歳

(引用:名護博物館『比嘉宇太郎所蔵資料展』図録より)