二見のあゆみ・小年表

二見の小年表

880年頃 首里・中頭の士族、名護・羽地・本部・与那原・平安座からの人々が移り住む。

1921年 西海岸との間に郡道が開かれる。

1927年 行政区二見が成立。

1945年7月 中・南部からの避難民や疎開者が収容される。臨時軍政下、楚久が二見市(2,667人)に杉武田が東喜市(2,254人)となる。

1947年11月 二見公民館が新築落成。

1952年12月 杉武田海岸の護岸工事竣工。

1953年3月 電話開通。

出典:「わがまちわがむら

二見のあゆみ

二見は、楚久川を境に瀬嵩村と大浦村の管轄に分かれていた。川の両岸に薪炭集積所のタムン座が置かれ、南は瀬嵩タムン座、北は大浦タムン座と呼ばれていた(久志村誌)。瀬嵩村と大浦村の管轄になっていたが、明治32年に始まる土地整理によって、この地域は大浦村に編入し、楚久原と杉武田原にしたという(前掲書)。

大正10年に郡道が開通するまでは、陸路は「楚久曲」と呼ばれるほど難路であった。大浦から行くのに、渡舟の手縄を操って磯を辿り崖を越えなければならない不便な地であった(前掲書)。

昭和2年、人口の増加に伴って行政区二見として分離した。同時期に、大川も分離した。戦前まで、二見は薪や炭それに木材などの積み出し港として機能していた。また、山原船の避難港としての役目も果たし、よく知られていた。

沖縄戦直後の昭和20年7月には、中南部からの疎開・避難民などで二見の人口は大きく膨れ上がった。当時トーキ(東喜)と呼ばれた現在のスギンダ(杉武田)には2,254人、スック(楚久)に2,667人、計4,921人もの人々が住んだ。中南部への帰村が進む翌21年1月には、スギンダ323人、また楚久1,190人、あわせて1,513人が二見地内に住んでいた。避難民の人たちがすっかり引き揚げ、地元ももとに戻った翌年の22年10月には、戸数71・人口344人となった(久志村誌)。

その後、昭和35年以降の人口の動きは同年41世帯・247人である。

出典:「わがまちわがむら