天仁屋のあゆみ・小年表

天仁屋のあゆみ、小年表

1880年頃 首里・那覇の士族、ハサマ山に移り住む。

1904年 番崎の火の見番跡、日露戦争時に監視所に指定される。

1912年1月 天仁屋・有銘・慶佐次3力字連合青年会を天銘小学校でひらく。

1912年頃 ハサマ山の住人、底仁屋原・前原に移る。

1919年 字事務所に天銘校の分教場を設立。

1923年 東村の分村にともない嘉陽小学校の分教場となる。

1929年 底仁屋原に校舎を新築。

1939年5月 有津川大洪水で避難騒動。

1943年4月 天仁屋分教場、高等科を併置して独立、天仁屋国民学校となる。

1945年 中南部からの疎開者・避難民で人口急増する。

1952年 天仁屋から行政区底仁屋分立。

1954年6月 天仁屋小学校校舎落成。

1957年 丘陵地の開墾事業始まる。

7月天仁屋水道工事竣工。

1958年9月 底仁尾、天仁屋と再び合併。

11月 天仁屋小中学校創立15周年を祝う。

1961年天仁屋一繕の丘陵地に北部製糖の直営農場開かれる。

1962年 底仁屋改めて行政区として分離。

電話が開通。

コンクリート造の公民館新築。

1975年 底仁屋の御神松、市の天然記念物に指定される。

1976年2月 御神松の碑建立。

1980年 県営畑地帯総合土地改良頭業進む。

1982年7月 天仁屋地区に県内初の辺地法適用される。

1984年10月 米軍ヘリコプターのドアが天仁屋のキビ畑に落下。

あゆみ

先史~古琉球の天仁屋

天仁屋には、有津遺跡と天仁屋原遺跡、それにハサマ遺跡がある。

有津遺跡は、沖縄貝塚時代前期の遺跡で、有津川河口の砂丘に立地する。口縁部にコブ状の突起をもつものや沈線文を施した沖縄貝塚時代前期の土器が採集されている。

天仁屋原遺跡は、グスク時代から近代にかけての遺跡である。公民館や神アサギや根神屋などの拝所があり、グスク時代の土器片や中国製の青磁・染付、それに近世・近代の沖縄製の陶器が採集されている。

ハサマ遺跡は近代の遺跡である。底仁屋と前川が、現在地に移る前の集落跡だといわれている(名護市の遺跡2)。

近世の天仁屋

17世紀中頃の「絵図郷村帳」に「てぎな村」、「高究帳」で「てきな村」と見え、「由来記」(1713年)から「天仁屋村」と記される。「高究帳」による石高は、28石余り(田24石余、うち永代荒地3石余含む、畠3石余)であった。

御法度の詣木を盗み取り、商売する者がいて、乾隆13年(1748)津ロ勤番を国頭間切の三力村・久志間切ニカ村に詰めさせ、船の出入りを改めさせた。乾隆16年(1751)に勤番の役を引き上げ、山奉行筆者を増やし、船改めも兼務させた。山筆者や検者の所管となる村もあったが、天仁屋は在番の所管となった(地方経済史料)。

南側に突き出たバン崎には、烽火台が置かれ詰所も設置されたという。1644年に沖縄本島や各離島に烽火台が置かれ、店船や異国船、それに大和船などの監視にあたらせた。バン崎の烽火台は、本島東海岸の監視にあたらせ、現在の東村のイュー(魚)からの連絡を受け、与那城間切の宮城島に連絡したという。また、日露戦争のときも監視所として指定された。

近現代の天仁屋

近代の天仁屋の人口を見ると、まず明治13年には戸数39、人口133人(内男68)である。同36年には456人(内男233)で、この間に人口は3.4倍にも大きく増えている。また、同年の平民人口273人に対して士族人口は181人(40%)で、久志間切では士族人口の割合がもっとも高い村であった。天仁屋の人口増加は、士族の転入によるところが大きいと思われる。

底仁展と有津は、廃藩置県後に本島中南部から士族が寄留して形成した集落である。底仁屋は、戦後行政区として独立した。ハサマ・クビリヤマ・グガチャヤマなどでは、山仕事が行なわれ、天仁屋川に近く薪の切り出しや運搬に便利であった。河口では、山原船が往来し、薪や木炭などの積み出しで賑わいを見せた時代があった。

明治34年の新聞に次のような記事がみられる。久志間切の天仁屋村に本県では他にない金柑林がある。大城業光の四代目の先祖が鹿児島か、あるいは中国から持ち帰ったもので実に100年以上もなる。種を撒いた当時は、私有のつもりであったが成育がよく、将来見込みがあるとの評判がでて、旧藩庁も大いに奨励し、米に代えて金柑で貢租を許した。褒美として親族中から毎年筑登之の位を授けられることになり、また間切から人夫の支給もあり保護された。しかし、明治34年当時には放置されたままで、所々に金柑木が散在するのみであった(戦前新聞集成1)。

大正9年に字事務所に天銘小学校の分教場が設立された。大正12年に東村が分村したために、嘉陽小学校の分教場となり、昭和4年に底仁屋原に校舎を新築し、天仁屋小学校が創設された。

出典:「わがまちわがむら