汀間ムラの内と外

汀間ムラの内と外

汀間ムラのもうひとつの発祥地と伝える対岸のハデールのムラ立ての祖は北山からの流れの喜舎場なる人物で、のちに嘉手苅ウフヤーといわれた。この嘉手苅ウフヤーと現集落の宗家カニクウフヤーは同じ家であるともいう。ムラの最も奥(北)に位置するカニクウフヤーの分かれが、他のウフヤー屋号をもつ三軒(イリウフヤー.アガリウフヤー、メーウフヤー)であるといわれている。ノロはウンバハリの松田一門から出るが、根神はイリウフヤー(上原一門)から出る。このほかの神入にワキノロ、サグンガミ(以上女性)、テーク神、ウフシード(以上男性)がいるが、その出自の一門は明らかではない。

汀間で一番のウェーキは屋号ナーカ(仲本姓)で、戦前当時一軒だけイジャクヮといわれる下男・下女をつかっていた。屋敷のまわりに石垣をめぐらした家もナーカとイリウフヤーだけだった。また、汀間で最初の瓦家は仲里屋である。

集落を東西に走るウマバ(馬場)から北に宗家、旧家が固まり、かつてのムラはウマバ以北にあったと思われる。当時の宿道はカニクウフヤーの前を通っていた。その後、ウマバを通り東のウドタゥンヌジョーに至る道が主要な道となった。旧八月十一日の綱引き行事はこのウマバでおこなう。かつてはこの道で綱引きのあとの相撲もした(現在は公民館前広場)。そのほかの道も碁盤目に整然とつくられている。八月綱引きのとき、ウマバから南をメー組、北をクシ組にわけ、メー組は雌綱、クシ組は雄綱で引き合う。瀬嵩方面から来る人はメー組に、三原方面から来る人はクシ組に入れ、メー組が勝てばガシ(飢饉)の年、クシ組が勝つと豊作の年になるといわれた。

東の入口、ウドゥンヌジョー(御殿の門)の広場はカイバ(会場)ともいい、そこで青年たちが力石をもちあげてカ比べをしたり、四月アブシバレーで相撲をとったりした。その近くにあるウドゥングヮーと呼ばれる屋敷は、かつて首里王府の役人が泊まったところグと伝えられる(玉城屋の管理)。

戦前までのムラヤーはウマバ以北の中央にあった。また集落の東には産業組合があったが、共同売店はなく、それができたのは戦後のことである。マチャグワーはこの産業組合と祝嶺商店の二軒で、河口ちかくで山原船が運ぶ日用雑貨(石油、メリケン粉、茶など)を売っていた。

サーターヤーは現在のサンカジューの東隣、川岸近くに牛馬を動力とするものがあり、子供たちは馬追いを手伝うと砂糖がもらえた。ムラクシにも水車のサ一夕ーヤーができ、これらはいずれも共同で利用し、自分の畑に近い方のサーターヤーを使った。

ムラクシの山裾のイズミガ一に飲み水を汲みに行くには、田んぼのなかの道をつかった。昭和十二年頃になってムラヤーの前に水タンクを設置し、イズミガーから導水したので、たいへん楽になった。

汀間川に戦後木橋がかかるまで、渡し舟の両端に綱をつけ、それをたぐって対岸のハデールに渡った。綱は当初、各家からの供出だったが、のちに専門の人に頼むようになる。ハデールの畑は砂地で、イモ、粟、野菜などをつくっていたので、渡し舟は必要だった。

薪木は売るものをメーギといい、生木を二尺五寸~三尺に切りそろえ、竹の輪で縛って出した。枯れ木や小枝などはタムンといい、自家用にした。林産物として山原船に売ったのはメーギのほか、山原竹、キチ用材(長さ十二~十三尺)、木炭などで、木炭を出すのはほとんど三原の人だった。アカズミとよばれたティカチ(シャリンバイ)の皮を奄美大島に出すこともある。また、海のサンゴ石を焼いて石灰(シックイ原料)にして与那原方面にも出した。

水田は、おもに集落の北のムラクシとティマダ川下流域の低地、ナートゥガ一にあり、それぞれ汀間川、ティマダ川から引いた用水路を利用した。ウンバハリの後ろにも二百坪ほどの水田があり、玉城屋の所有だった。西の山からの流れとカニマンガーの水をひいたが、その小さな水路をビーといい、その広場をビーグチと呼んだ。ここは七月七日以降、ムラ踊りの練習場所になった(夜の練習はムラヤーで)。

畑はハデールのほか、集落の西(現久志中学校敷地)にあり、イモ以外に養蚕用の桑畑があつた。瀬嵩の養蚕所(久志村の施設)で孵化し、配布された蚕を養うのである。糸をとったあとのサナギは焼いて食べるとおいしかったという。ウンバハリのそばの山の斜面は段畑で、おもにイモを植えた。

新しい墓地はイリバルのティマダ川を渡った海岸沿いにある。その河口付近にガンヤーがあり、そこから少し川をさかのぼった西の山裾に古墓地帯がある。ここには仲田シンジユ、上原シンジミ アブシンジュ(玉城姓)の三つの共同墓(模合墓)と、入り口に按司墓とよばれる小さな墓がある。最初に按司墓を拝んでから自分たちの墓に行ったという。これとムラクシの親按司・若按司両墓との関係は不明。

人が亡くなると、集落西端の道を通って墓地にむかうやウンバハリからの葬列もムラの北端の道から同じ道に出た。ムラの西のダビシモーという場所でガンを下ろし、シマワカレをした(死者と同じ干支の人、また同じ組の人はガンを担がない)。墓への納棺のあとティマダ川河口のスンダンチビから砂利を採り、亡くなった人の家の周囲に呪文を唱えながら投げる。魔物を退けるためという。

ワラビ墓は現久志中学校敷地にあり、ワレーウスドゥクマといった。七歳以下の子供が対象で、ガンにのせずに葬り、山原竹で囲った。