呉我

呉我区の現況

世帯数:261世帯 人口:584人 面積2.72k㎡ (2017年現在)

呉我は、方言でグガーと呼ばれる。故地呉我山から移転する前の村名を継いだものである。呉我山の地がグガー(サルナシ)の多い土地であったことにちなんだものだという(宮城真治:沖縄地名考)。名護市の北東部に位置し、今帰仁村と接する。県道71号線(本部循環線)が通り、羽地内海に面し奈佐田川の河口にある。

集落は、東西に延びるウフェーの北側に位置し、海岸に沿って碁盤目状に発達している。集落の東側をウプシマ(大島)、中央部をインガニク(西兼久)、西側をウプザキ(大崎)、ウフェーを越えた南側をシマクシ(島後)と区分している。海岸沿いの狭いところに立地するため、近年住宅はウフェーを越えたクシバル(後原)に増えつつある。

嵐山は観光ルートになっていて、羽地内海に浮かぶ島々や国頭の連山などの風景が美しい。羽地内海は、台風のときの船舶の避難港となる。

主な施設に、呉我養鶏団地と羽地農協呉我支所がある。

呉我集落センター 名護市呉我114番地

呉我のあゆみ

先史~古琉球の呉我

呉我は近世以前から、今帰仁の呉我山の地にあったとみられる。しかし、現在のところ呉我山地内では当時の遺物は採集されていない。しかし、移転前の旧屋敷跡や神アサギ・ビーガー(堤泉)・ハミガー(神泉)の跡地は確認されている(呉我誌)。

近世の呉我

17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」では、今帰仁間切の一村で「ごが村」と記される。「高究帳」による石高26石余り(うち田9石余、畠16石余)で小規模かつ畠の占める割合が高い村であった。ただし、移転前の今帰仁の呉我山での石高である。

呉我は、1736年(元文1)蔡温の山林政策によって現在の今帰仁村の呉我山から移転してきた村である(球陽)。一時、真喜屋の北側に移ったが風水が良くないので、そこから現在地に移動したともいう(国頭の村落)。現在地は、我部祖河村の地内だったという。

17世紀末頃までは、今帰仁間切の一村であった。その後、呉我山の地は今帰仁間切から羽地間切へと間切境界の変更があり(1690年頃)、そして1736年には呉我山の地から現在の呉我の地に移転してきた。その当時の戸数は、移転後数年たった1742年の「竿入帳」に39戸が記されており、それからして30戸以上あっただろうと言われている(宮城真治:呉我誌所収)。

王府は、不況が続き財政が緊迫したので1829年(道光9)に各地の間切に公債を募った。その時、呉我村の前夫地頭我部祖河親雲上と石嶺筑登之も提供している(球陽)。

呉我の地は、呉我が移動してくる前は我部祖河の区域で、海岸一帯は風葬場所であった。一帯の遺骨を一カ所に集めたのがナガハマシンジュで、呉我でいう屋墓である。その古墓は、我部祖河のムラバカ(村墓)として戦後まで残されていた。昭和22年、呉我の区事務所をそこに移転することになり、遺骨は我部祖河墓地に移し葬ったという(呉我誌)。

近現代の呉我

近代の呉我の人口の動きを見ると、まず明治13年には戸数99、人口567人(内男297)である。同36年には785人(内男343)で、この間人口は1.4倍に増えている。また、同年の平民人口767人に対して士族人口21人(2.7%)であった。下って昭和14年には戸数166、人口614人(内男271)を数える。その60年前に比べて、戸数で約1.7倍、人口では1.1倍となっている。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和35年に722人、その後同41年頃から徐々にではあるが減少が進み、同60年には487人となった。25年前と比較して3分の2に減っている。一方、世帯数はこの間ほとんど変動がない。

呉我での製糖は、明治の中期マテヌガーブロー(真照川原)で、小規模ながら樫木の圧搾機で製糖が行なわれていた。明治中頃になると、10名程で共同経営する鋳物製の圧搾機を使った砂糖屋が、グガー(呉我)とミナトゥバル(港原)の二カ所にできた。当時は、まだ牛や馬に引かせる牛車であった。その後、フシブロー(後原)のシカビラに水車を使った砂糖屋もあった。昭和4年に県の補助で、ディーゼルエンジンで圧搾できるようになり能率があがった。

大正3年に呉我の集落中央部のスガリバンタとシカビラを開削し、島後(シマクシ)へ通じる道路が開通した。その後、道路の拡張がなされ、郡道そして県道になっていった。昭和2年には呉我橋が架設され、これまで渡舟で往来しなければならなかった不便さから開放された。昭和9年には鉄筋コンクリートの橋になったが、同20年に日本軍によって爆破された。戦後仮の鉄橋から鉄筋コンクリー卜になり、昭和60年下流側に呉我新橋が新設された。

昭和3年に台中65号が台湾から導入され、翌年から羽地一帯に普及した。これまでの在来種(黒穂・赤穂種)に替わって、呉我の水田にも植えられた。さらに二期作が行なわれ、それまでの数倍の収穫が得られるようになった。当時の水田も、今ではキビや花き栽培が行なわれている。

昭和6年には、県がハンセン病患者の療養施設を嵐山に建設するということで地元の猛反対にあう、いわゆる嵐山事件が起こった。呉我からも4人が起訴された。同11年、呉我移転二百年記念事業が盛大に行なわれ、お宮の建設がなされた。その時、呉我「移転二百年記念誌」も刊行された。

昭和19年の10.10空襲の時は、呉我は空襲を受けなかったが、翌年3月24日朝に爆撃をうけ、40軒が家を焼失してしまった。4月9日再び爆撃をうけ、50軒が焼けた。4月7日には米軍が名護から上陸し羽地村役場まできて、また名護まで戻った。区民は、その日の夕方から仲尾次山や川上山・金川山などへ避難した。6月23日に山を降りてみると、呉我は中南部からきた避難民でいっぱいであった。呉我の人口は、5,000人にも膨れあがっていた。一時期、田井等市呉我村と呼んでいた。同20年10月30日に、他の町村の人たちは元の居住地への帰還が許された(呉我誌)。

呉我の産業の現況を就業者の構成について見てみると(同表参照)、就業者240名のうち、第1次産業45%、第2次産業15%、第3次産業41%という構成で、第1次産業の比重がやや高い。第1次産業(農畜産業)は、ここ15年少しずつ減る傾向にあるものの、依然として呉我の主産業部門である。第3次産業ではサービス業が半分を占めている。

その農畜産業について見ると(農業基本統計表参照)、呉我はこれまで養鶏とキビが基幹で、パインがそれに次いできている。ここ15年の動きを見ると、農家数は4分の3に減り、経営耕地面積および作物の収種・栽培面積は全体としていずれも6割に減少した。大きく減ったのはパイン畑である。

呉我は茶が特産品で、現在も約3haほど栽培されている。また、新しく花き類(約3ha)や施設園芸が伸びてきている。

畜産は養鶏が中心で、養豚がそれに次ぐ。養鶏は、羽地地区で稲嶺に次ぐ飼養数を有し、ずっと伸びてきて、現在7万5千羽余り飼養されている。昭和57年度には呉我養鶏団地(鶏舎23棟他)が整備された。養豚は、一時期1,000頭を越える規模に達したが、近年は大きく減っている。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の呉我の御嶽として、「由来記」(1713年)に呉河之嶽(神名イタオエクチワ力御イベ)が記される。当時は、現在の所に移ってくる前、つまり今の今帰仁村呉我山に村があった。また、神アシアゲがあり、そこでの祭祀は我部ノロが司った。当時の月々の祭祀は一覧表の「由来記」記事に見る通りである。

現在の拝所は、集落の東の外れに集められている。仲尾へ続く海岸沿いの道路の山手側に広場があり、その奥には神アサギがある。さらに奥には上門口、道を隔てて東に下門口がある。神アサギの背後の森の頂上部にウタキの洞がある。拝井泉には、ビーガーとハミガーがあり、神アサギの西、ウタキのある森の裾に位置する。また、ビーガーの前にはビーダーという神田もある。神役は、男性神役であるウペーフが玉城系統のウペーフ屋から、女性神役も玉城系統から出る(国頭の村落)。

現在も続く伝統的な年中行事は、表に見るように、旧2月の二月ウプマチ、ビーダーウグヮン、4月のアブシバレー、5月15日のウマチー、6月の六月ウグヮン、24日から26日のハンサガイ・イニジカ・ヤーサグイ、8月のシバシウグヮン・ワラビミキなどがある。

芸能

呉我は芸能の盛んな所で、特に「義民」は有名である。豊年踊りは、戦前まで旧7月26日頃に4日間行なわれていたが、戦後になって旧8月15日に変わり、今ではその前後の土曜日に神アサギの広場で催す。

祭りの当日、ウフザキから道ジュネーで神アサギ広場に向かう。広場に着くと、まず棒を演じ、長者の大主を初めにして舞台芸能に入る。「義民」は中ほどに入れ、最後には七福神を演じる。また歌劇「漁の縁」は必ず演じられる得意の劇である。「久志の若按司」「八重瀬」などの組踊もあったが、今はやらない。なお、エイサーはない。

文化遺産

呉我には、指定を受けた文化財はないが、上述の豊年踊りで演じられる「義民」は、チョンダラー(京太郎)芸が組み入れられていて、貴重な民俗芸能との評価が高い。それは、扇子舞(オージメー)・御知行の歌(ウチジョーヌウタ)・馬舞者(ウマメーサー)・鳥刺舞(トゥイサシメー)の4つのチョンダラー芸である。

嵐山には、「嵐山玉井農場開設拾周年記念碑」が建っている(昭和36年羽地村建立)。不毛地とされていた嵐山の開墾(昭和26年着手)とパイン産業の普及に貢献した玉井亀次郎氏の功績をたたえたものである。

字誌「呉我誌」は、多くの関係者の努力によって昭和51年に出版された。羽地地区では「字親川郷土誌」に次ぐもので、今日の字誌づくりの盛況ぶりに大きく寄与した。

呉我に伝わる伝説から、次に一話を紹介する。

シカビラのお粥戦争

昔は呉我の港から古我知の方まで船が入ったそうだ。ある年、そこへ大和の軍隊が攻めてきた。そして、シカビラという所から上陸しようとした。沖縄の人たちは熱いウケーメーで足を火傷させようと、坂の上から流したそうだ。そしたら、ちょうど腹の減っていた大和の兵隊は、それが冷えるのを待って、食べて元気になったという。沖縄は負けたわけだな。(昭和60年民話調査より)

呉我の小字一覧

ハチントゥイ[垣取原/垣取原]

グガー[呉我/呉我]

ヌホマタブロー[仲尾又原/仲尾又原]

ウガミヌウイプロー[拝ノ又原/拝ノ上原]

シマタブロー[ 島田原/ ]

フシブロー/(シマフシ)[後原/後原]

グガヌフシブロー/(シマフシブロー)[呉我ノ後原/呉我ノ後原]

ハンジャーブロー[鍛冶屋原/鍛冶屋原]

ユナプロー[与那原/与那原]

ウプゥビラプロー[大平原/大平原]

ミナトゥバル(バラー)[港原/港原]

マテヌガーブロー[真照川原/真照川原]

マリブロー/(マリヌクヮー)[真利原/真利原]

ウプマリブロー[大真利原/大真利原]

パナウフェーヤマ[花ノ拝山/花ノ御拝原]

呉我は15の小字からなる。集落はグガーを中心に、グガヌフシブローに広がる。グガヌフシブローは、ナハラとハンジャウイを合わせてそう呼ぶという。ハンジャブローはここに鍛冶屋が設けられたことに因るとされ、またこことユナブロー辺りで以前羽地大川と奈佐田川が合流し、広い河口と低湿地を形づくっていた。東のシマタブロー・ヌホマタプロー・ウガミヌウイブロー一帯は、近年の土地改良により地形が一変した。羽地内海に面する北のマリブローにかけては、ビルマター・チビクンジマター・ユレダマタ・プスマター・ハチンジョーなどの小さな股が続く。なお、明治36年には仲袋原の小字名がみえる。

呉我小年表

1667年 鍛冶屋原に鍛冶屋を官設。

1735年 羽地大川改修にともない、呉我の後原や鍛冶屋原に水路新設される。

1736年 現今帰仁村呉我山の山林内より現在地へ移動。

1738年 その跡地に湧川村を創建。

1858年 呉我・仲尾・古我知の田は水利が悪く干ばつの被害を受けやすいため、用水路を引く。

1906年 屋我地常在地を呉我付に移す。

1916年 8月国頭郡青年団総会において呉我青年団二等旗を授与される。

1927年 郡の工事により、呉我橋架橋。

1928年頃 水稲台中65号種を導入。

1929年 ディーゼルエンジンによるサトウキビの圧搾が行なわれる。

1930年 8月呉我産業組合、事務所新築を決める。

1931年 呉我嵐山にらい保養院設置の動きに対し反対運動起こる

1933年 精米所設置。

1934年 県直営で呉我橋が鉄筋コンクリートの橋になる。

1936年 8月呉我産業組合 土地を購入、組合員が小作し10年後に所有する事業を進める。

1939年 仲尾次に通じる県道124号線完成。

1951年 玉井地次郎(田井等)嵐山でパイン開墾を始める。

1954年 呉我股業協同組合設立。

1960年 公有林のパナフェ山を開墾、茶の栽培と生産を始める。

産業政策によりパイン栽培用地の払下げ始まる。

1961年 戦争中日本軍に爆破されたコンクリート橋再建。

1965年 羽地西部土地改良組合設立。

1972年 西部土地改良事業完了。

1985年 新呉我橋架設。

呉我の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

1.1 祈願祭

1.3 生年祝(各戸)

1.10 運営委員会 *本年はあと6回開催(1、4、5、8、11、12月)

1.14 戸主会 *本年はあと3回開催(9、11,12月)

3.30 ニングヮチウプマチ(旧2. 最初の大安)

▲麦穂大祭(旧3月、由来記)

4.5 ピーダウグヮン(旧2・大安)

4.14 清明祭

▲ウリジム御願(旧4・吉日)

5.19 畦畔草刈

5.28 清掃検査

6.6 アブシバレー(旧4月)

6.10 250周年事業推進委員会

6.29 合同班長会(青年会・婦人会・向上会)

▲年浴(由来記)

7.2 ウマチー(旧5.15)

7.14 嵐山入口草刈作業

7.16 婦人常会 *本年はあと3回開催(8、11、12月)

7.28 区民運動会

7.29 ルクグヮチウプマチ(旧6月)

8.3 250周年推進委員会お宮見学

8.10 ハンサガイ(旧6.24)

8.11 イニジカ(旧6.25)

8.12 ヤーサグイ(旧6.26)

8.30~31 盆踊(旧7.14~15)

9.4 向上会・青年会合同常会

9.7 ウタカビウガン

9.9 豊年祭練習開始

9.18 老人会視察

9.24 シバシウガン(旧8.10)

9.28~29 豊年祭(旧8.15~16)

9.28 ワラビミキ(旧8.15)

11.10 生産部視察講習

11.26 向上会常会

12.8 ウンネーウガン

12.22 嵐山入口草刈作業 *毎月2回老人学級をもつ