源河

源河

源河区の現況

世帯数:281世帯 人口558人 面積22.01k㎡(2017年現在)

源河は、方言でギンカあるいはジンカと呼ばれ、「おもろさうし」には「きんか」と記される。その名の由来は不詳。

名護市の北東部に位置し、東側は大宜味村の津波と接する。国道58号線が集落北側の海岸線を走っている。また、近年整備された県道14号線がタバル(田原)から宇橋山の東側を通り東村の有銘に通じる。

南に一ツ岳(291.5m)や宇橋山(283.6m)など200m級の山々が連なる。これらの山々に源を発する源河川は、流域面積20k㎡,流路延長は12.8kmあり、名護市域第一の河川で、また県内でも有数の大きな川である。源河川の水と女性の清らかさを、「源河みやらびの色美らさあしや源河走川の水の故か」と詠む琉歌はよく知られる。源河川の主な支流には福地川と桃原川がある。

集落は、ウーグスクの麓とシーヤマ(瀬洲山)の西麓、そして海岸近くの低地に発達している。ウーグスクの麓の集落はミズバル(水原)とタバル(田原)に区分される。これにメーガー(前川)・ハマ(浜)・シーバマ(瀬洲浜原)・クシバル(後原)そして大湿帯を加えて、源河は7つの集落から成る。

主な施設に、源河小学校・羽地農協源河支所・名護市衛生センター・県企業局源河ポンプ場・チップ・工場・堆肥工場などがある。

源河地区会館 名護市源河1305番地1

源河区のあゆみ

先史~古琉球の源河

源河には、瀬洲村遺跡源河大グスク遺跡がこれまでに確認されている。瀬洲村遺跡からは、グスク時代の土器・染付・中国製青磁・沖縄製の荒焼・上焼など、グスク時代後期から近代にかけた遺物が採集される。このかつての瀬洲村跡は、瀬洲山の中腹に位置し、明治末に12,3戸程となり、大正期にすべての家が下に移ったという。源河大グスク遺跡は、グスク時代後期から近世にかけての遺跡である。グスク時代の土器・類須恵器・中国製青磁・南蛮陶器などが採集される。

近世の源河

近世の源河は羽地間切に属し、17世紀中頃の「絵図郷村帳」で「げんか村」、「高究帳」では「けんか村」とみえ、「由来記」(1713年)には「源河村」と記される。瀬洲村は、「絵図郷村帳」「高究帳」ともに「せす村」とみえる。「高究帳」での石高は、源河村が125石、うち田が116石(89%)で、瀬洲村は28石、うち田が26石(95%)である。石高で見る限り、近世初期の源河は羽地では中規模の村であり、瀬洲は最小規模の村であった。

「球陽」の記事に、1689年(康照28)に瀬洲村は源河村に属したとあるが、1713年の「由来記」やその後の史料にも瀬洲村の名が見える。また、集落の移動は、上に触れたように、近代に入ってからであった。

近世後期、羽地問切には源河・我部祖河・仲尾次の三大ウェーキが存在した。源河ウェーキ屋敷は、チャーギ造りの母屋をはじめ納屋・馬小屋・フール・高倉などが建ち並び、数多くの使用人を使っていた。首里・那覇へ出向く時は籠[かご]を用い、大勢の使用人を従え、大名行列さながらの華やかさだったと伝える。明治14年国頭地方を巡回した上杉県令たちは、源河ウェーキを「床ニ松竹寿老神、三幅ノ画軸ヲ掛ケタリ。国頭地方第一ノ金満家ト云フ」 と記している(巡回日誌)。

近現代の源河

近代の人口の動きを見ると、まず明治13年には声数163、人口914人(内男473)である。同36年には1188人(内男611)で、この間に人口は1.3倍に増えた。また、同年の平民人口1208人に対して士族人口28人で、僅か2.3%を占めるに過ぎない。士族人口が少ないことは、当時の羽地間切にみる一般的な特徴であった。

下って昭和14年には戸数296 、人口1273人(内男609)を数える。その60年前と比較して、戸数で1.8 倍、人口では1.4倍に増えたことになる。なお、この時期源河は羽地村で最も人口の多い字であった(2位は仲尾次1003人)。

戦後の人口の動態は、推移グラフに見るように、昭和35年1454 人、同45年1105人、同60年855人と、漸次減少してきた。25年前に比して約6割に減ったととになる。一方、世帯数は昭和45年以降ほぼ同規模であるが、25年前(323世帯)に比して現在はその約8割(268世帯)である。

明治40年、稲嶺小学校の分教場を設置し、戦後昭和20年に独立、同23年には中学校を併設して源河小中学校となる。

戦前の暮らしは山稼ぎに大きく依存していた。源河川の河口にギンカナートゥ(源河港)という地名がある。ここは戦後間もなくまで山原船が往来した所だ。もっと以前は上流のサチヌファーまで伝馬船が遡航し、材木や薪などを那覇・泊に向けて積みだした。

大正期の初め、源河からもラサ島に燐鉱石採掘の出稼ぎに行く人々が増えた。大正4年には50余名がラサ島で働き、毎月500円以上の送金があったという(戦前新聞集成2)。その頃はまた、国頭郡役所が砂糖キビ作を強力に奨励した時期で、源河でも800余丁の産額を上げるまでになった。

戦前、国頭村の辺野喜川をはじめ、源河川・我部祖河川まで鮎が生息していた。中でも源河川の鮎は全島に知られていた。明治の頃、山原の有識者が那覇の友人を歓待する際、源河川の鮎漁によく誘ったようだ。次のような記事がある。明治39年、瓢々生(新聞記者)が国頭旅行で名護に来たとき、郡役所の書記や黒岩農学校長らが連れだって鮎漁にでかけた。投網や携網を携え、名護から半日がかりで源河川に着いた。ところが鮎の姿はなかなか見えず、その日の収種は僅か20尾足らずであったと(前掲新聞集成1)。昭和5年には鮎の人工孵化計画が進められた。同10年代になると、源河川の鮎狩りを楽しむ観光客も増えたという。同15年には源河川を禁漁区に指定し、県が鮎の県外出荷をもくろんで増殖操業に着手し、同年末に沖縄で初めての人工孵化を始めた(約350万尾)。戦後も、昭和32年頃漁業調整委員会を設置して鮎漁を禁じたり、繁殖に努めたが、ここ10数年鮎の姿は見られない。現在、区民挙げて「源河川にアユを呼び戻す」運動が進められている。

源河大湿帯は、山原の胴体を北西一南東方向に切る大きな断層に沿ってできた盆地である。まさに山間僻地で、近代以降開墾に着手されたが、出る人も多かった。近年この地で農業に取り組む人たちが相次いで入植した。努力と協力の結果、昭和57年には電気と電話が通じた。「電気電話開通記念碑」は、新しいむらづくりの息吹を刻み込んでいる。

源河の産業の現状を就業者の構成で見ると(同表参照)、就業者371名の内、第1次産業52%、第2次産業17%、第3次産業31%という構成で、第1次産業(農業)が半ばを占める。ここ15年、第1次産業がやや減ったものの、大きな変化はないといえる。

農畜産業を見ると(農業基本統計表参照)、耕種ではキビを中心にパイン・ミカンが重要作物で、畜産では養豚を中心に養鶏も盛んである。ここ15年間の動きは、農家は2割減り(第2種兼業農家に顕著)、1戸当たりの経営耕地面積は1割程増えた。源河全体の経営耕地面積は107haで、羽地地区では群を抜く。

源河の耕地開墾は、昭和38年に瀬洲山開墾第一組合が10万ドルの資金を投じて8万坪を開墾、さらに第二組合・野国原組合を設立してパインやキビ作を広げた。

現在、キビ畑が耕地の約半分を占めるが、15年前に比べて3分の2に減った。パイン畑は変わりなく、ミカン畑が増えている。かつて源河ターブックヮとも言われ、48町歩の水田が広がっていたが、昭和40年代後半に水稲は作られなくなった。

養豚は、以前から源河の農業を一方で支えてきた。以前は屋敷や集落の近くに設けられていた豚舎も、昭和40年代後半から丘陵地への団地化が進んだ。昭和56年度にも新たに団地が建設され(豚舎10棟)、現在源河では9千頭程の豚が飼われている。養鶏も盛んで、現在3万6千羽程飼養されている。

また、有銘を結ぶ県道14号線近くに、豊かな森林資源と豚の糞を活用すべく、チップエ場と堆肥工場が建設され(昭和60年度)、操業している。

伝統文化

拝所と祭祀

近・世の源河村の御獄として、「由来記」(1713年)に上城嶽(神名コバウノ御イベ)と野国ニヤ嶽(神名イシモリノ御イベ)が、また瀬洲村に源河之嶽(神名コイシフノ御イベ)が記される。さらに源河村に源河掟火神と神アシアゲが、瀬洲村に掟火神と神アシアゲがある。御獄の祭祀は真喜屋ノロの管轄で、他は源河ノロ(瀬洲の掟火神は掟神)が司った。当時の月々の祭祀は、一覧表の「由来記」記事に見る通りである。

現在の御嶽は、シーシウタキ(瀬洲御嶽)・ウーグシクウタキ(大城御嶽)、それに昭和5年宮城定良区長の時期に御嶽を統合して造ったクーグシク(小城、通称オミヤ)がある。拝井泉には、ウーグシク近くにティラガーとハティガーが、また瀬洲の山麓にヤマシチャ・ウイヌハー・シチャヌハーがある。

神役は、ヌル・ニガミそしてウペーフ(男)が金城系統(瀬洲)から、ウチガミ・シマペー(男)は平良系統(源河)から出ることになっている。

現在も続く伝統的年中行事は、表に見るように、旧暦1月2日の初御願、4月第2の子の日のアブシバレー、同15日のウマチーと水御願、6月25日のヒチューマ(新穀)、8月10日の豊年祭、9月9日のウマチーと水御願などがある。

芸能

源河の公民館は、豊年祭の時正面の柱を利用して仮設舞台が組めるように、当初から設計されている。ここにも地域文化を大切にする伝統が生きている。

豊年祭(八月遊び)に演じられる長者大主は、様式の整っている点、とくに儀来・かないの大主が登場するのは古代人の信仰が芸能化されたとみられ、民俗学的に重要だと評価される。伝統的エイサーはない。戦前は獅子舞・ガク・棒などもあったが、途絶えた。組踊は伏山敵討が中心(宜保栄治郎:名護市の民俗芸能)。

文化遺産

源河大湿帯の近く、保源橋から東に入った山中にオキナワウラジロガシの大木がある(樹高18m,推定樹齢180年)。見事な板根は大人の背丈ほど、長さは5m近くもある。人目につくことは稀だが、特異な名木である (昭和60年3月市天然記念物指定)。

源河ウェーキ屋敷は、現在荒れたままであるが、見事な石垣をはじめ往時の大ウェーキをしのばせる建物・屋敷跡が残る。せめてこれらの実測記録を作成する必要があろう。

源河ではハル石が2基確認されている。一つは北東の丘陵上にあり、「と・しれ原」の記号が刻まれる。土手が原形のまま残されていて、貴重である。今一つは「ら・さきのは原」と刻まれるが、元の場所は不明。二つとも現在の小字名(原名)とは対応しない。

近代の土地譲渡証書・借用書・茶毘帳を中心に、これまで100点余りの地域史料・家文書が確認されている。琉球大学の島袋源七文庫に収められている明治期の「借入並借渡日記」「山野畑地割帳」も重要な史料である。また、昭和16年頃の耕地整理関係資料も、戦時下の農村事業を知る上で注目される。

伝説で有名な恥うすい坂は、昭和61年に県道14号線が整備され、源河~有銘間はすっかり便利になった。その旧道近くに同年12月「野山越る道や/幾里隔みても/闇にただひとり/忍で行ちゅん」と刻んだ歌碑が建立された。次がその伝説である。

恥うすい坂[はじうすいびら]

源河の小字一覧

トーバル[桃原/桃原]

ガジマル[我地丸/我地丸]

キラマ[慶良間/慶良間]

ヌグンナ[野国名/野国名]

ナハダ[仲田原/仲田]

ミナトウイバル[湊上原/湊上]

パマ[浜原/浜原]

タバル[田原/田原]

メーガー[前川原/前川]

プクジバル[福地原/福地]

ナハシ[仲瀬原/仲瀬]

クシバル[後原/後原]

スマヤマ[柚山/柚山]

源河は現在13の小字からなる。明治36年には他に西原・前原・仲保・伊宰良・安良屋・石䦰・潟原などの小字があったが、今は小地名に残っている。例えば、ナハープ(仲保)は源河公民館の対岸の平地に当たる。なお、ナハープからミナトウイバルにかけた斜面をマチュンダ(松田)と呼んでいる。集落はタバルを中心にトーバル・メーガー・パマ・クシバルに分布する。広大なスマヤマの一部に大湿帯[おーしったい]という盆地があり、10世帯程の人たちが住む。

源河小年表

1689年 瀬洲村が源河に属す(球陽)。

1906年11月 暴風雨のため源河川大氾濫。

1907年 稲嶺小学校の分教場設置。

1913年11月 源河山において樟脳製造試験を行なう。

1915年5月 50余名のラサ島出稼ぎ者より毎月500円以上の送金あり。

砂糖800余丁の産額あり。

1927年 源河の拝所がオミヤに統合される。

1930年4月 津波太郎の田で本県初めての献穀田田植式行なわれる。

10月 アユの人工孵化計画を進める

1933年 産業組合設置。

1939年 この頃源河川のアユ狩りを楽しむ観光客増える。

9月 源河分教場新築認可申請。

1940年1月 源河川を禁漁区に指定、県がアユの増殖計画。

12月 本県初のアユの人工照化(約350万尾)を始める。

1941年 産業組合解散。

1945年 稲嶺校より独立し、現敷地に新校舎を建築。

1948年 中学校併置し、源河小中学校となる。

1954年 源河農業協同組合設立。

1973年7月 仲瀬原に市し尿処理場完成。

1982年1月 大湿帯に初めて電灯・電話がつく。

3月 源河養豚団地完成。

源河の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

1.1 初詣

1.2 交通安全友の会無事故祈願

1.14 代議員会*ほぼ毎月開く

2.20 旧正月

2.21 初御願(旧1.2)

2.23 源河川にアユを呼び戻す会講演会

3.22 戸主会

4.12 婦人会総会

4.14 清明祭

4.16 諮問委員会

4.20 老人会総会

4.30 戸主会

5.20 代議員会

5.30 婦人会*本年はあと5回開催(7,8-2回、11,12月)

▲稲穂祭三日崇(由来記)

▲山留(由来記)

6.6 アブシバレー(旧4.第2の子)学事奨励会および相撲大会

6.10 老人会視察

6.18 交通安全友の会

6.19 向上会・姉人会・青年会合同総会

6.20 村づくり会議

▲年浴(由来記)

7.2 ウマチーおよび水御願3ケ所(旧4.15)

▲海神折目(由来記)

8.11 ヒチユマー(新穀)(旧6.25)

8.13 村づくりリーダー視察

8.22 七夕( 旧7.7) * 各戸で

▲柴指(由来記)

9.4 豊年踊り打ち合わせ会

9.22 敬老会(旧8.9)*豊年踊り上演

9.23 豊年祭(旧8.10)

▲ミヤ種子(由来記)

10.22 ウガヌー及び水お願3カ所

11.19 村づくり講演会

11.27 友利哲夫氏講演会

▲ヲンナイ折目(由来記)

12.23 戸主会

12.29 婦人会生花講習会

▲篭廻(由来記)