合併のいきさつ

市制スタート、合併のいきさつ

1970年(昭和45年)8月1日、名護市は旧名護町、久志村、屋部村、羽地村、屋我地村が合併して誕生した。県下9番目の市である。合併当時の人口は3万7千人、市域の面積が210平方キロメートル、沖縄本島北部では唯—の都市として、北部の過疎化に歯止めをかけるべく市制がスタートした。

合併には10余年の歳月を要した。琉球政府(当時)は昭和31年に「市町村合併促進法」を立法、県内をいくつかのブロックに分けて市町村合併を推進していた。名護ブロックはその中で重要ブロックとして早くから話し合いが進められていたが、合併の態様、区域などをめぐり賛否がいり乱れ、話し合いは遅々として進まなかった。昭和42年、 5町村が基本線で一致し「合併促進協議会」を結成、二年間の準備を経て昭和45年6月16日、 5町村の議会でいっせいに合併決議をして名護市の誕生をみたものである。

この年は、初の市長、市議の選挙が行なわれ、市政の執行態勢が確立、年末の12月には沖縄では初めての結核キャンペーンも実施された。(「市制10周年記念誌」より)