改決羽地川碑記

改決羽地川碑記

種別:史跡

指定年月日:昭和44年8月26日/県指定

所在地:田井等426ホカ

この石碑は、具志頭親方蔡温が羽地大川を改修した事項を記したものです。

享保20年(1735年)旧7月の豪雨の際に、上流のタクジ坂に山崩れが起こり、流れをせき止めたので、その 一時的にできたダムが決潰するとともに未曾有の大洪水となり、一時にどっと土砂を押し流した。それが下流に至り堤防の大決潰を生じ、多くの美田を老廃させました。時の尚敬王は、この川の修復を国営事業としておりあげ、治山治水に造形の深い具志頭親方蔡温(1682~1761年)をその指揮に当たらせました。この大工事は地元の羽地間切だけの手におえず、人夫を夫役とし、羽地、名護、久志、国頭、本部、伊江島、恩納、金武、大宜味、今帰仁の各間切から、延べ107,380人が割り当てられました。蔡温が羽地の現地を踏んで実日数三ヶ月足らずの間に事業をやり遂げたのです。改修実施後10年を経た、延べ107,380人が割り当てられました。蔡温が羽地の現地を踏んで実日数三ヶ月足らずの間に事業をやり遂げたのです。改修実施後10年を経た、延享元(乾隆9年=1745年)には、この大事業を記念する石碑が河川の流域に建てられました。その原碑が損壊したので、更に80年後の1830年(道光10年)8月に、川上、田井等、親川部落の接合点、通称「碑文の前」に再建したのが今の石碑です。

ところが、明治43年(1910年)にも再度羽地大川が大洪水を起こし美田を押し流しました。大正6年(1917年)流域地主らが耕地整理組合を組織し、呉我に注いでいた羽地大川の流れを仲尾次の方向に変える大事業が着手されました。多くの困難を乗り越え工事が完了した昭和13年(1938)には、改決羽地川碑記の東方約200mの川上公民館の庭に羽地大川改修顕彰碑が建てられました。