安和のあゆみ、小年表

安和のあゆみ

先史~古琉球の安和

集落の後方、クバの御感付近に安和貝塚がある。沖縄貝塚時代後期からグスク時代の遺跡で、土器・石器・青磁・白磁・沖縄製陶器などが出土している。

また、部間の集落の北にある部間権現の洞窟の中からは、中国製の青磁が採集されている。この青磁は、15、6世紀頃、明で作られたものとされるが、定説はない(名護市の遺跡2)。

近世の安和

近世の安和は名護間切に属し、「絵図郷村帳」と「高究帳」には、「あわ村」と見え、「由来記」(1713年)には、「安和村」とある。「おもろさうし」にも「あわ」と見える。

「高究帳」に見る石高は、山入端と一緒で18石余り(田14石余、うち永代荒地5石余を含む。畠は4石余)である。名護間切では最も石高が少なく、また畠の比率が高い村であった。

集落の北東の山上に上座毛(ウイザモー)と呼ばれる所があるが、そこは、安和の創始者とされる上座親雲上が最初に住んだ地で、そこから集落内に移ったと伝える。安和の古島である(安和の語りぐさ)。

廃藩置県後、安和の北方の山中や部間の谷間に士族が移り住み屋取集落を形成した。

近現代の安和

近代の安和の人口を見ると、まず、明治13年には戸数143、人口721人(内男371)を数え、名護間切13力村で第3位を占めた。同36年には1,827人(内男924)で、この間2.5倍も人口がおおきく増えている。この伸び率は名護間切で一番高い。またこの年、同じく間切内で第3位の人口規模を保っている。同年の平民人口1,360人に対して士族人口は477人(26.0%)であり、名護間切では士族人口の多い村に属した。

廃藩置県後、それまでは旧慣例に従って決めていた地頭代の選出方法が崩れた。旧慣例をやぶって最初に地頭代に抜擢されたのが、安和の池原栄寿であった。明治15年のことである。また、明治30年の間切・島吏員規定施行によって、名護間切の初代間切長になったのは、安和出身の仲兼久山端であった。彼は、それ以前の明治24年には地頭代を勤めている(名護六百年史)。

明治40年、名護村で最初に鰹漁業を開始したのは、安和の仲兼久嘉栄と仲兼久忠吉であった。和船型無動力帆船での操業であったが、かなりの成績を上げ、大正4年まで続いた。大正11年には、部間と安和に動力船を使用する鰹漁業組合が設立された(前掲書)。

明治31年の4月に屋部尋常小学校の分教場として設置された安和分教場が、明治41年に安和尋常小学校として独立した。その頃の敷地は、公民館前のホーチョーヤー(豊長屋)の屋敷にあった。大正4年の新築工事の際に現在地に移転した。それから5年後の大正9年に高等科が設置された(安和の語りぐさ)。

名護間切産業組合が解散した翌年、明治42年に安和産業組合を設立した。大正3年に解散したが、その年に砂糖共同組合が設立され、動力圧搾機が設備された。大正5年には安和比留木・安和の両耕地整理組合を設立し、キビ栽培に力を入れた(戦前新聞集成2)。

大正13年町制を施行した年に、本部半島の海岸線道路工事が始まった。10年後、水明橋が竣工して、本部半島一周線が開通した。

昭和17年、いよいよ戦時体制が強化されていく中、嘉津宇岳のふもとの猫川原(マャーガー)が勝山区として独立した。終戦後の昭和24年には、部間が区として独立したが、同33年には廃止されている。昭和30年の部間の戸数は43、人口は182人であった。

昭和20年4月、屋部・字茂佐の海岸から上陸した米軍は、三隊に分かれ本部半島に攻め入り、安和もすぐに占領された。我謝如古原や門川原に避難していた住民も、早い時期に捕虜になって収容されたが、真部山・八重岳には宇土部隊の陣地があったので、戦闘はしばらく続いた。住民が帰村を許されたのは同年11月であった。

昭和39年には、集落の西に琉球セメントエ場が建設されたが、その後、煤塵問題が起こり、安和勝山区煤塵対策委員会が結成され、改善を求めて公害闘争に入った。解決を見たのは同46年である。

出典:「わがまちわがむら