シネーガチ

シネーガチ

左図にみるようにシネーガチ川に沿う細長いマタで、首里・那覇の人たちが与那原・中城・泡瀬・今帰仁などを経由して移り住んだ。戦前昭和期には三十五軒をこえていた。主な生業は山仕事(木材・薪木)と自給農業で、一部で藍、砂糖などもつくっていた。点在する集落や川沿いの道は人と馬が通れるくらいの道で、戦前には、宿道(スクミチ)にウフバシという木橋があったほかに橋はなく、人も馬も川の浅いところを渡った。 マタの入口、汀間川に面するシネーガチチグチ(津口、湊)に、山から切り出した薪木や木材を集積し、ここから山原船に積み込んだ。働き盛りの男は木材、女性や子どもはおもに薪木をとった。一束七斤ほどの薪木で一銭になり(大正後半~昭和初期)、薪木以外の枝・葉を自家用の燃料にした。 平地はほとんどが水田であり、シネーガチ川の河口付近は潮が入ってきたが、そこの水田でも稲をつくった。裏作にはサトウキビ(十二月~三月植付け)やタードーシイモをつくった。台中六十五号が普及して二期作が可能となる。川岸の斜面はイモをつくる段畑であった。古い時代の猪垣はあちこちにあったが、シネーガチの住民がつくったものではない。現在、マタの北西の段畑の上に確認されるが、久志のほかのムラと同じくサンゴ平石をつかっている。 四か所に藍壺があった。当初は山の谷間で藍を栽培したが、運ぶのが大変なので、のちに平地ちかくでもつくるようになった。藍壺は個人所有で、他の人が使うときは使用料を納めた。藍つくりには一週間ほどを要し、藍のカスはエーチブ所有者のもので、よい肥料になった。砂糖づくりのサーターヤーは三か所あり、いずれもサトウキビをつくる人たちの共同であった。牛や馬を持ち寄り、イーマールで砂糖をつくったが、このとき入れる石灰を焼く窯、フェーシガマが別に二か所あった。できあがった砂糖を詰めた樽を伝馬舟から山原船に運びこむのに、船が揺れるため、樽をなかなか持ち上げられなかったという。 シネーガチには店らしい店はなく、一時期ごく小さなマチヤグヮーがあったが、品数は少なかった。稲をつくっていたので、行事としてアブシバレーだけは毎年おこなった。拝むのは汀間で一緒にやり、帰ってマタの住民だけで祝った。このとき学童を集めて学事奨励会もした(マタごとの集落なので、各マタで別々にした)。

墓は戦前、各自それぞれの畑や土地につくった。資金を出し合い、シネーガチ共同の墓地をマタ入口の山につくったのは戦後のことである。

また、戦後になってシネーガチに集会所(「シネーガチクラブ」または「事務所」と呼ばれた)ができた。

出典:「民俗3