仲尾次

仲尾次区の現況

世帯数:337世帯 人口:776人 面積5.05k㎡(2017年現在)

仲尾次は、方言でナコーシあるいはヌホーシ・ナホーシと呼ばれ、羽地内海に面している。村名の表記は、なかぐすぐ→中城→仲尾次と変化をみた。北東部にナコーシターブックヮ(仲尾次田袋)やマギャターブックヮ(真喜屋田袋)が広がっていた。かっての水田地帯は現在では、主にキビが栽培されている。

集落の西側を、大正11年につけかえられた羽地大川が羽地内海に注いでいる。集落の南側は、「山の高さや仲尾次山」と歌われるように、多野岳から国頭山地の山々に連なる。羽地内海には、ジャルマ島をはじめ小さな島々が浮かぶ。

集落は、カーヌウイ(川之上)からマチジョー(松門)・ナカブック(中袋)にかけて碁盤状にひろがっている。

主な施設に、名護市役所羽地支所・羽地中学校・羽地給食センター・仲尾次公民館(地区館)・羽地郵便局・仲尾次漁港・羽地農協仲尾次支所、それに多野岳には保養施設勤労者いこいの村おきなわやNTTのマイクロウェーブ中継所などがある。

仲尾次公民館 名護市仲尾次406番地

仲尾次のあゆみ

先史~古琉球の仲尾次

仲尾次には、仲尾次上グスク遺跡と川之上遺跡・ウフ御嶽土器出土地(仮称)がある。仲尾次上グスク遺跡は、グスク時代から近・世にかけての遺跡とみられ、伝承では、そこから村移動がなされたと言われている。

集落の南寄りに、グスク時代の川之上遺跡がある。周辺にはノロ殿内や神アサギ・根神屋などがあり、グスク時代の土器や類須恵器・青磁片などが採集されている。ウフ御嶽土器出土地(仮称)からは、僅か1片だが土器片が採集されている(名謹市の遺跡2)。

近世の仲尾次

17世紀中頃の「絵図郷村帳」と「高究帳」では「中城村」とある。「高究帳」で中城村の石高は186石余り(田179石余、畠6石余)で、羽地間切では我部祖河と同規模であり、他と同様田の比率が高い(96%)。「由来記」(1713年)には「中尾次村」と記され、「中城村」から変化している。羽地内海に浮かぶジャルマ島にある墓には、「中城掟」と刻まれた石棺(石厨子)が見られる。近世期の仲尾次村の掟を勤めた人が葬られている。

17世紀中頃、中城(ナカグスク)から仲尾次(ナコーシ)への村名の変更は、康煕7年(1668)に王府が「中城」の使用を禁止したことによると言われているが、近・世の後半まで諸史料に中城村と出てくることから、それに起因するかどうかはっきりしない。なお、「ペリー訪問記」(1856年)では、ナコシ(Nakosi)と呼ばれている。

近現代の仲尾次

近代の仲尾次の人口の動向は、まず明治13年には戸数153、人口891人(内男453)である。同36年には1,180人(内男585)で、この間人口は1.3倍に増えている。また、同年の平民人口1,142人に対して士族人口は39人(3.3%)と少なかった。下って昭和14年には戸数237、人口1,003人(内男443)を数え、その60年前に比べて、戸数で1.5倍、人口では1.1倍に増えている。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和35年に1,065人、その後1,000人規模で推移し、同60年には935人を数える。25年前に比して12%ほど減ったことになる。世帯数はほとんど変わらず、25年前より32世帯増えて、昭和60年は261世帯を数える。

仲尾次は、明治35年以降旧羽地村の中心地である。明治35年には、近世から親川に置かれていた間切番所(役場)が、羽地村の中央部に位置する仲尾次に移された。しかし、大正3年までの長い間、民家を借りていたので、不便で窮屈であった。それで、羽地尋常高等小学校と仲尾次との間(現敷地)に敷地を選定し役場を改築した(戦前新聞集成2)。また、明治35年に親川から羽地尋常小学校を移転し新築した。

明治39年に羽地を訪れた旅行者は、次のような印象を語っている。米の産地は羽地で、ここを訪れる人は誰しも田圃の広さに驚く。生産高も羽地に匹敵するところはない。人々の暮らしも安楽だ。昨年の干ばつでも他の間切に芋を売り出すくらいだから。しかし、貧しいのもここであろう。就中、金持ちの親玉をあげるとしたら、近年2,30年で大出世した仲尾次の耕作屋のウスメーで、それに次ぐのが源河ウェーキだといっている(戦前新聞集成1)。

羽地大川の問題は古くからあり、蔡温の時代に国家的な事業として大改修工事がなされた(1735年)。明治43年の大洪水をきっかけに、羽地大川の改修は村民からも重要問題として提起された。大正4年に下流を仲尾次海岸に導く計画となった。当時の付近の状況は、「現羽地中学校の前の高さ数十mの丘に堰き止められ、僅かな水が県道に沿って仲尾次の海に流れていた。そのため川上橋下流500m一帯の耕地は水はけが悪く、アシやガマが密生する低地であった」(新島俊夫:名護碑文記所収)。大正初期から昭和13年にかけて、耕地整理と河川改修・河道つけかえの大事業が進められた。しかし、度重なる豪雨で堤防の決壊を招き、その修復に追われるなど、事業は順調には運ばなかった。大正11年11月、ついに丘を切り開き、河道を仲尾次側へ通す大工事の完成をみた。

仲尾次の水道の歴史は古く、嵩川親雲上が素焼きの水道管を使ったことに始まるという。近代の水道事業は昭和2年に着手され、トゥイヌハーの改修のあと、同7年に親川又井をコンクリートで整備し、翌年には集落中央に水道タンクが設けられた。枝タンクも設置され、この「簡易水道」事業で暮らしはたいへん便利になった。タンクの側の碑は、昭和9年3月の竣工を記念して建立されたもので ある(宮城良雄:名護碑文記所収)。

戦時体制下の昭和18年、全国的に展開された夏季心身鍛練運動で県下各地で未明のラジオの掛声が勇ましく響いたころ、仲尾次では「われらの健民運動は稲刈だ」と、青年団で毎朝未明の稲刈共同作業を行なった(戦前新聞集成2)。

戦後、昭和29年に仲尾次農業協同組合が組織され、同30年代には米やキビそれにパインが栽培されていた。また、養豚や養鶏も盛んに行われるようになった。

仲尾次の南にある多野岳(383.2m)は、戦時中日本軍の遊撃戦の拠点となった。戦後は米軍のナイキ基地となったが、昭和47年に返還された。仲尾次は、その基地から余剰電力を引き、字単位で組合を組織して配電組織を整え、それまでのランプ生活に別れを告げた。頂上部には、保養施設勤労者いこいの村おきなわが建設された。羽地内海や東シナ海、そして太平洋を眼下に一望することができ、訪れる人が多い。

仲尾次の産業の現状を就業構成について見ると(同表参照)、就業者410名のうち、第1次産業25%、第2次産業18%、第3次産業57%という構成で、第3次産業の比重が高い。第3次産業では、サービス業がその半ばを占める。15年前に比べると、第1次産業が10%、第2次産業が2%減り、その分第3次産業が増えている。なお、仲尾次には羽地地区で唯一泡盛をつくる龍泉酒造がある。

就業者の4分の1を占める農畜産業について見ると(農業基本統計表参照)、仲尾次ではキビと養豚が基幹をなしている。農家はここ15年間に3分の2に減ったが、それは第2種兼業農家に著しい。この間、経営耕地面積も6割に減り、仲尾次全体として26ha余りになった。作物の収穫・栽培面積も49.9haから245haへと、半分近くに減ったが、なかでもキビ・水稲が大きく減少した。新しい動向として、僅かではあるが施設園芸が出てきたことが注目される。

一方、畜産は養豚を中心にずっと伸びてきている。特に昭和54年度に仲尾次養豚団地(豚舎10棟他)が整備されたことにより、飼養頭数は2倍になり、現在3,500頭余が飼養されるまでに至っている。

仲尾次は漁業も盛んで、現在19名が従事している。仲尾次漁港の整備も進められている。この漁港には年間200トンほどの水揚げがあり、名護市の水揚げの5分の1を占めている。漁業種では、小型定置網・刺網。はえ縄が主である。魚種別では、タイ・ハタ・アイゴ・ボラ・グルクン・カニなどが多い(昭和59年)。

伝統文化

拝所と祭祀

「由来記」(1713年)には、近世の仲尾次の御獄として仲尾次之獄(神名コガネモリノ御イベ)が記される。また、神アシアゲがあり、そこでの祭祀は真喜屋ノロの管轄となっている。当時の月々の祭祀は、一覧表の「由来記」記事に見る通りである。現在、仲尾次の拝所は集落の後方(南)に多い。公民館の西の小高い森はウガミグヮーと呼ばれ、大正の頃に一度そこに字内の拝所が集められたが、今は元に戻されている。

集落の中心線を山手に向かうと、神アサギ・ウプフヤー・ニガミヤーがある。さらに奥にはムクジガーがある。ムクジガーの北西にはウエーガマタガー、北東にはウチマタガーがある。ムクジガーの背後の斜面をずっと上ると、そこにウプウガーミあるいはウフ御嶽と呼ばれる仲尾次で最も重要な拝所がある。現在の集落から離れて、羽地大川の河口を越えた羽地中学校裏の丘の上には、ウイグシク・ナカグシクという拝所とカミガーという拝井泉がある。ここが、移動前の故地と伝承される。神役は、ニガミが新城系統から、ウペーフはクニガービキの元屋から出る。仲尾次・真喜屋・稲嶺の祭祀を司る真喜屋ヌルは、タキガービキの元屋から出る(国頭の村落)。

現在も続く伝統的な年中行事は、表に見るように、旧4月のアブシバレー、5月のウマチー、9月6日から10日の豊年踊りなどがある。アブシバレーの時には、相撲大会と農事懇談会が催される。豊年踊り期間中の9月9日には、昼夜の御願が行なわれる。

芸能

仲尾次の豊年踊りは伝統があり、区民も誇りを持っている。新設された公民館には内と外に舞台があり、外の舞台は特に豊年踊りのために設けられたものである。

豊年踊りは、9月9日を正日に4日間行なわれ、正日には道ジュネーで部落内を回る。公民館に戻ってまず棒が演じられ、総踊りを初めに舞台での踊りが始まる。特に谷茶前・高砂・松竹梅などは有名で、現代劇や時代劇も演じている。エイサーもあるが、それは20年程前に中部から導入されたものである。

文化遺産

仲尾次には、まだ指定された文化財はないが、仲尾殿内(通称上殿内)は、米どころ羽地のウェーキ(豪農)の格式高い民家建築として知られる(明治34年建築)。当時は、サンゴ石灰岩の石垣と福木に囲まれ、50坪の母屋に台所・高倉・前の屋・フールなどの建物が屋敷狭しと建ち並んでいたという。現在無住のため、いたみが進んでいる(名護市の文化財第二集)。

仲尾次の豊年踊りで演じられる「高砂」は、80年位前クガニヤマ玉城という人がここだけに伝えたという貴重な踊りである。

公民館の東南方、神アサギの庭にはヤブツバキが11本植えられている。その一本は、胸高直径45cm・樹高7mもある珍しい老樹で、大寒を過ぎた頃赤い花を満開させる(推定樹齢150年)。また、公民館裏の松敷森の丘には、推定樹齢170年の見事な老松が集落を見守るように立っている(名護市の名木)。

仲尾次にもいくつか石碑が建つ。郵便局裏の広場には、コンクリート製で片面に「簡易水道」、もう片面には「皇太子殿下御誕生記念」と刻まれた記念碑が建っている(前述)。

羽地中学校の北隣りには、旧羽地村の慰霊塔と、名護市では唯一現存する忠魂碑が建つ。集落の南の山はアプウガミと呼ぶ御嶽であるが、その中腹にはクガニムイヌイピーと称する拝所がある。伊差川と稲嶺を結ぶ基幹農道がその付近を通り、聖域に触れることになった。そのことの不利益が区民に及ばないよう、また区民の安全息災を祈願して、昭和61年道路のそばに「黄金森之御獄」と刻む碑が建立された(名護碑文記)。

仲尾次からもハル石が一基みつかっている。元の場所は不明だが、「テ・なかをす原」の記号が刻まれている。

仲尾次に関する地域史料は、これまで14点が確認されている。その中で、「のろ難渋一件」(1869年)や「子孫江伝書」(1872年)は重要な民俗史料である(喜納家史料)。また、県立図書館の比嘉春潮文庫には「文子勤之時職々日記」(1859年)が収蔵されている。他に、宮城家の茶毘帳6点や、松田家の戦後じきの「事務ノート」などの伝存は、今後とも地域史料が発掘される糸口として注目される。

現在、仲尾次では字誌づくりが取り組まれており、また大学機関による村落総合調査研究が実施されるなど、地域の歴史や社会・文化を再認識する気運が高まっている。

仲尾次は伝説の多い所である。ここでは二話を紹介する。

夕キガーウェーキ

仲尾次にとても財産持ちのタキガーという家があり、首里城にも知れ渡った。首里城では、タキガーが金持ちになり過ぎると王府が脅かされるといって、戒めに行った。

首里城からきた十人の役人は、「三味線を弾いて遊ぶから十人分の三味線をくれ」といった。タキガーウスメーは、すぐに十人分の三味線を準備した。役人たちはわざと弦を切って代わりの三味線を求めたが、次から次へと三味線は出てきた。次に、「首里に帰るから十人分の提灯を用意しろ」といった。ウスメーはそれもすぐに準備した。役人たちは、このままでは負けてしまうので、次に「仲尾

次から首里城まで、歩幅の間隔でお金を並べろ」といった。ウスメーは、「たとえお金があっても、道に捨てるようなことはできません」といったので、命令を聞かなかったということで、ウスメーは八重山に島流しになったそうだ。(昭和60年民話調査より)

美女ウチマタナビサ一

仲尾次にウチマタナビサ一という大変美しい娘がいた。ある時、国頭に御用のある首里の役人が龍に乗って仲尾次を通ると、きれいな髪をしたその娘を見て、すっかり惚れてしまった。役人はその娘に水をくれと声をかけた。娘が柄杓で汲むと、役人は「あなたの手で飲ませてくれ」といって、その娘の手水を飲んだ。そうこうしているうちに、役人は御用に遅れてしまって、首になったそうだ。

(昭和58年民話調査より)

仲尾次の小字一覧

クビリ[久美利/久美利]

(ウタブック)[仲尾次袋/仲尾次袋]

ギニジ[慶根地/慶根地]

マチジョー[松門/松門]

カーヌウイ[川之上/川ノ上]

ナカブック[仲袋/仲袋]

キナサブ[富名作/富名作]

ナコーシブロー[仲尾次原/仲尾次原]

ルクガー[六川原/六川]

ムチマシバル[持増原/持増]

マガフー[真賀久/真賀久]

ムクジバノレ[茂久地原/茂久地]

ウフビラ[大平原/大平]

ハビラ[波美良原/波美良]

イシグスクマタ[石城又/石城又]

フムイヤ[堀屋/堀屋]

マチクジー[松久地/松久地コ

マヌクヮー[山之小/山小]

アカマター[赤又/赤又]

スモヤマ[柚山/タニョ]

仲尾次は20の小字からなる。集落は-マチジョーを中心にカーヌウイ・ナカブックに広がる。ナコーシブローにはナカグシク・ウイグシクの拝所・遺跡があり、ここが仲尾次の故地と伝える。水田はクビリ・ウタブックに広がっていたが、ナカブックの田もよく肥えていた。南のウフビラ・ハビラのビラは、平地ではなく坂の意味である。

仲尾次小年表

1844年 あみぢや山の開地作職を願い出る。

1873年 真喜屋と柚山境界をめぐる争いは仲尾次の勝訴になる。

1902年 親川から羽地尋常小学校が移転し羽地尋常高等小学校となる。

間切役場、親川から移転。

1908年1月 風俗改良会・農業奨励会を組織する。

1910年 羽地大川の大改修工事始まる。

1915年8月 仲尾次馬場で字民大会を開催。

1922年 羽地大川、仲尾次側に付け替えなる。

1943年8月 青年団、毎朝稲刈り共同作業を続ける。

1954年 仲尾次農業協同組合設立。

1974年10月 羽地内海で共和丸転覆事故。

1977年1月 第1回新春区民親睦駅伝大会開く。

1980年 仲川土地改良事業(28.3ha)。

仲尾次の行事・活動一覧 昭和60年

1.1 新年祝賀会

1.11 初御願

1.16 総務部員会

*本年あと4、5月に開催

十六日祭 * 各戸で

1.21 踊方幹部会

2.2 満の御願(旧12.24)

2.5 建設委員会

*本年あと3,11,12月に開催

2.16 運営・建設委員会

2.20 戸主会

*本年あと4,8,9月に開催

▲ターウイミチ(旧2.吉日)

3.22 幼児園卒園式

▲田植初

▲麦穂祭

▲三月四度御物参(由来記)

4.10 部長会

4.23 運営審議員会

*本年あと6,8,9月に開催

4.25 総務及び各部長会

▲山留(由来記)

6.3 社会・文化部会

*本年あと8,10月に開催

6.6 畦払い(旧4.吉日)

*相撲大会、農事懇談会

6.8 区内美化作業

6.18 字誌編集委員会

▲ ヒチュマ

▲年浴(由来記)

7.2 ウマチー(旧5.15)

7.7 区民運動会

7.15 小中学校部落懇談会

7.23 社会部会 *本年あと12月に開催

7.27 老人ケートポール大会

8.22 七夕(旧7.7)*各戸で

8.30~31 盆踊り *社会部・婦人部主催

▲シパシ御願(旧8.8)

9.5~7 ダム視察

9.7 真喜志康忠講演会* 向上会主催

10.14 各団体長会

10.19 敬老会

10.20 カジマヤー

10.19~23 豊年踊り(旧9.6~10)

10.22 昼夜の御願(旧9.9)

11.22 幼児園運動会

▲うんね(旧11.25)

▲ミヤ種御願

12.23 教育懇談会

▲鬼餅(旧12.8)*各戸で

▲ タントゥイ