汀間の村踊り

汀間の村踊り

村踊りの変遷

〔由来〕

村踊りは1879年(明治12)の廃藩置県前後に始まったと考えられている。

〔戦前〕

1937、8年(昭和12、3)頃から女性が村踊りに参加するようになった。

〔米軍統治下の時代〕

戦時下で中断していた村踊りが、1947年(昭和22)頃に復活した。しかし、1955年(昭和30)頃に再び中断し、この時を最後に組踊と棒は途絶えている。

1962、3年(昭和37、8)頃にエイサー(手踊り)が取り入れられたが、1970年頃には、辺野古から太鼓エイサーが導入された。

〔復帰後〕

1979年、村踊りを再復活させた。この時から開催場所が公民館に変わった。

〔現在〕

村踊りは、現在では隔年で旧暦7月16日後の土曜日か日曜日の1日だけの上演となっている。

芸能

村踊り

〔方言呼称・期日・場所〕 汀間ではシチグヮチヲゥドゥイ (七月踊り。以後「七月踊い」と表記)と呼び、旧暦7月16日(正日・ソーニチ)、17日 (別り・ワカリ)に行われた。旧暦7月13日にも、ヌンドゥンチ(ノロ殿内)の庭にバンク(仮設舞台)を設置してスクミ(仕込み。予行演習)をしたが、全ての演目ではなかった。1979年(昭和54)の再復活後は、旧暦7月16日に実施してきたが現在では隔年で旧暦7月16日後の土曜日か日曜日の1日だけの開催となっている。

『沖縄民俗』(第13号)によると、7月13日はスクミといって、サンカジュをノロと根神が祈願し、「以前はその日に盆踊りの予行演習を行った」とある。また、15日は各家庭でのウークイ(祖霊送り)の後、青年たちがエイサーを行い、翌16日は「13日のスクミに対するソーニチで、イリギッチャで行われる」とある。また、17日は「別れ遊びと称して16日と同様」に踊り、「そのあと神人がワカリ旗ドーシ御願をしてから、旗をかたづけて解散する」と紹介されている。

現在は2年に1度、基本的には区民運動会と交互に演じられているが、集落内に不幸があった場合や他の行事との関連、また特別な事情があった場合は取りやめることもある。実際に2003年(平成15)は該当年であったが、拝所(サンカジュ)を既存の場所に新築したため、実施できなかった。

上演場所は、戦前・戦後を通して、汀間91番地「イリギッチャ」(現上原昌三宅地内、以前は畑であった)で行ってきたが、1979年の復活後は、公民館(現汀間地区会館)で開催している。

〔汀間・村踊りの由来・伝承〕

汀間の「七月踊い」はいつどのように始まったかは定かではないが、1879年(明治12)の廃藩置県前後と考えられている。戦後は、1947年(昭和22)頃に一度復活したが、1955年(昭和30)頃また中断した。その後数年間は、当時公民館として使用していた、廃校となった久志中学校の教室で演じられた。1979年、玉城蒲五郎が区長の時代に、土地改良事業を期して、「七月踊い」を再復活させた。区事務所の記録によると、1983年(昭和58)、再復活後第2回目の踊りが実施されている。

〔舞台構造〕

上演場所が前述のイリギッチャ時代のバンク(仮設舞台)は、図のように設けた。バンクの前は特別指定席で、その周囲が一般区民の座敷であったが、各々綱を張り巡らせて、座トゥイベーク (席とり勝負)であった。旧公民館時代は、公民館から張り出すような形で舞台を作ったこともあった。角材、ベニヤ板などの材料はその後、盆踊り等にも使い回した。

1979年の村踊り復活後は、公民館の舞台で上演している。

現在の幕は、2000年(平成12)、公民館を新築した際に区予算で買い替えたものである。それ以前の幕については不詳である。

音響設備も2000年の公民館新築に際して揃えたものである。1979年(昭和54)の復活時には司会用のマイクは公民館備品としてあったが、出演者用のピンマイクは他から借用していた。現在「七月踊い」当日の音響係は、区民からその方面に詳しい人に依頼している。

〔村踊りの演目〕

戦前の演目はたくさんあり定かではないが、次のようなものがあったようだ(地元の表記)。

踊りは、「長者ぬ大主」「稲しり節」「上い口説」「下い口説」「高平(良)万才」「与那原節」「加那ヨ天川」「浜千鳥」「谷茶前」「松竹梅」「ゼイ」「前ぬ浜」「久米ハンタ前」「しゅんどー」「天ぬぷい節」等、組踊は、「久志の若按司」「高山敵討」「本部大主」「伏山」を交替で演じた。

劇は、「八重山在番」「貧乏(ヒンスー)学者」などである。

以上の他に「棒」(棒術)があったが、「棒」は7月13日か16日の道ジュネーの時だけであった。 戦前から毎回演じられる踊りは、「長者ぬ大主」「久米ハンタ前」「稲しり節」「松竹梅」である。イリギッチャ時代は 「スンドー」も行われていた。「汀間当」は戦後導入した踊りであるが、これも今では毎回踊られている。

〔村踊りの組織・指導者・伝承方法〕

現在は、実行委員会を立ち上げ、「七月踊い」を実施している。区公民館保存の復活第2回から第4回までの記念写真帳には、当時の組織図も掲載されている。

2001年(平成13)の組織は、委員長をトップに、副委員長、会計、庶務、総務が置かれ、総務の下に受付係、接待係、撮影係、太鼓係、用具係、化粧係、着付係、放送機材係、進行係、司会係、衣裳係、三味線係、小道具係、舞台装飾係が置かれている。また同年は、8月14日に 「汀間区七月踊り結団式」が実施された。

元々踊り手は全員男性であったが、1937、8年(昭和12、3)頃から女性に引き継がれたようである。戦前の「七月踊い」の指導者及び出演者は、松田義覚(明治8、9年生)、山城真加良(明治12年生)、松永久吉、カキウンチュー(愛称)、松田立三、宮城スムソー、上原松平、松田福栄、宮里主市、比嘉マンエツ、比嘉エイタロウ、松永保市、仲宗根忠太郎、仲吉ドーエイ、玉城定仁、松田義太郎、仲里賀幸、松田福三、松田福政、比嘉浩真、玉城蒲五郎、山内為頼、松田義次、伊波興真、その他男性群である。戦前の女性のモーヤー(踊り手)は、松田安子(大正9年生)、仲里トヨ、座覇秀子(大正12年生)、比嘉テル、高里カメ、玉城節子、比嘉ユキであった。棒は、伊波松三郎、上原松平、玉城安助であった。ジウテー(地謡)は、松田立太郎(明治21年生)、比嘉正忠、比嘉浩義、松永保幸、仲本福太郎である。化粧係は宮里主市と松田福政が主に担当した。

1947年(昭和22)頃、悲惨な戦世(イクサユー)を凌ぎ衣食住の苦難を乗り越えて、「村興し」「島興し」をスローガンとして、区民が一丸となって七月踊いを復活させたが、その時の指導者及び出演者は、上原松平、松田福栄、富里主市、仲宗根忠太郎、松田義太郎、仲里賀幸、座喜味盛良、玉城定仁、玉城蒲五郎、玉城香輝、松田義次、玉城定恒、比嘉ユキ、伊波興真、玉城香明、伊佐ハッチヤン(愛称。避難民で、戦後1、2年間汀間に住み村踊りを指導した)、玉城仁三、玉城定芳、伊波千代、仲里清、安里千代、上原松正、安谷屋時、仲本一郎、勢頭恵子、玉城正人、座喜味盛市、松田正則、比嘉哲、松田徹郎、山城文子である。ただし、他にも多くの方が参加したと思われる。

現在は、前回踊った人が後輩に指導する形をとっている。行事に不参加の場合も金銭的な処罰はないが、かつては出演者への弁当運び等の雑役を引き受けることになっていた。

〔経費〕

2001年の収入、支出はともに約60万円である。

〔稽古の仕方・期問〕

戦前の練習場所は村屋であったが、旧暦7月7日の七夕以降は、ウンバハーリ(恩計)のピーグチ(樋口。人里離れた小川の辺り)に仮設の舞台を作り、ピルピー(昼居)しての特訓となった。昼ご飯は、出演できない方々が出演者の家から持ち運びしたようである。

現在、稽古を含めスケジュールは実行委員会でとり決めているが、たいてい公民館で本番の約一カ月前から行っている。

〔衣装・道具・楽器〕

衣裳や道具類は、区公民館に保管されているが、現在は、年次的に計画の上で購入している。2001年は、アブジャーマーの面と「長者ぬ大主」の八角帽を買い替えた。

現在は村踊りの旗頭はないが、イリギッチャ時代までは道ジュネーの時に使用していた。獅子の図柄で旗の周囲は赤い縁取りがされていたようだ。

〔村踊り・祈願〕

旧暦7月13日には、ヌンドゥンチ(汀間345番地の隣地)の庭にバンクを作り、奉納踊りをした。その後、タンパラ屋(汀間87番地)で奉納棒を行う。兼久大屋(同89番地)では「オーギ舞い(かぎやで風)」を踊って終わる。以上はイリギッチャ時代のことで、1979年(昭和54)以後は行われていない。

2005年(平成17)の「七月踊い」の祈願は、区長と中本一正が行い、区の繁栄、子孫の繁栄、区民の健康を祈った。供物は、酒と線香である。祈願の期日は区長と神人が決める。

かつては、「七月踊い」に入る前に、神人がこの一年間の五穀豊穣と区民の健康感謝の祈願をしたようである。区に残る1949年(昭和24)の年中行事記録によると、旧7月13日、15日、16日、17日の四日間御願行事が行われ、場所は「拝所、タンパラ屋、兼久大屋」となっている。

2009年(平成21)は神人とサンナモ(手伝い役)で村踊りの日延べの祈願を行っている。

◆村踊りの記録

区で作成・保管している文書として、1983年(昭和58)~2001年(平成13)の実行委員会の文書綴りがある。内容は、プログラム、組織図、スケジュール、依頼文、実施要綱、役割分担、予算明細、招待計画、寄付者名簿、小道具購入明細等である。

その他にも区公民館には、踊りの歌詞、劇台本、写真集が保管されている。

また、名護市の記録としては、1989年(平成元)、2005年(平成17)の「七月踊い」の録画・写真記録がある。琉球大学民俗研究クラブが1967年に発行した『沖縄民俗』(第13号)には、村踊りほか芸能関係の記述がある。

道ジュネー

汀間ではミチジュネーと呼び、「七月踊い」の7月13日か16日に行っていたが、現在は実施していない。

かつての道ジュネーは次のようであった。イリギッチャから出発して39番地の側を通り、東方に向かう。35番地の側を通ってマーウイ(馬場)に向かい、ウドゥヌジョー(御殿門二番地)の側を通り、ウンバハリ(恩計)、その次に現三原の志根垣に入った年もある。それから当真小(今の三原売店の近く)、ヒジャグヮ (比嘉小、三原)の前を通って知念小(三原区の現山城範善宅) 前で折り返した。道ジュネ一には棒が演じられたが、「ミボー(三棒)」といって、三演目であった。

獅子舞

伝承がない。

長者の大主(長者ぬ大主)

汀間ではチョージャヌウフシューと呼ばれ、「七月踊い」に演じられる。当区にいつ頃伝播したかは不明だが、戦前からの踊りとして現在でも必ず演じられる踊りである。翁(長者ぬ大主)をはじめ、筑登之・親雲上、若衆二人が、神々へうやうやしく五穀豊穣とシマの発展、区民の健康を感謝するとともに、ユガフ(豊年)を祈願する内容である。

衣装は、翁が緑色の金欄の着物に紫の帽子、白い長髭をつけ杖を持つ。筑登之・親雲上は琉球舞踊でいう二才姿、若衆は赤い着物に赤の陣羽織である。

先輩から後輩へと伝えているが、現在の指導者は山内範正と比嘉哲である。

組踊

1955年(昭和30)頃に中断するまでは、村踊りの中で演じられてきた。「久志の若按司」「高山敵討」「本部大主」「伏山」を交替で演じたというが、台本等は区事務所に残されていない。

『沖縄民俗』第13号には、「高山城の組踊」が紹介されているが、「はっきり覚えている伝承者が居らず」ということで、概要と一部台詞(現代語訳)のみが掲載されている。

芝居・劇

「貧乏学者」「八重山在藩」ほかが演じられ、区事務所に手書きの台本が保存されている。しかし、長年上演されておらず詳細は不明である。2009年は、狂言「まぬけな泥棒」(指導者は松野克)が演じられた。

舞踊・演目の解説(2001年)

〔幕開け〕

舞台の幕開けとして、古典音楽「かぎやで風」を斉唱。出演は、歌三線6人(松田正吉、松田正善ほか)、太鼓2人、筝1人の計9人で、男性は羽織袴、女性は和装である。稽古は、練習日を決め公民館で行った。毎回行われる演目ではない。

〔汀間当〕

汀間ではティーマトゥーと呼ぶ(以下の演目も地元の呼称である)。戦前はムラの風紀が乱れるという理由で踊らなかったそうである。戦後導入されてからは毎回踊られている。女性二人で踊るが、2005年現在、指導者は特におらず、過去のビデオを見ながら練習している。研究所の手が入り、所作が以前と変っている。この歌は、琉球王府時代の請人・神谷厚詮と汀間の美女・丸日加那の恋物語が歌となって流行したものである。記録は、村踊りの項に同じである(以下の演目も特に断りがない限り同様)。

〔上り口説〕

ヌブイクドゥチと呼び、古くから上演されている。2001年は、区出身の高校生で琉舞研究所に通い、新人賞を受賞した我喜屋めぐみに踊ってもらった。

〔稲しり節〕

イニシリブシと呼び、古くから上演されている。必ず行う演目とされ、プログラムの前半部に組まれる。内容は豊年万作を喜ぶものである。配役は、ウッチ(掟)役一人、カシラ(頭)役一人、挽き臼を回す役二人、ユイ(箕)で選別等を行う役一人、計五人が出演するが、ウッチは近年では区長または実行委員長が担当することが多い。指導者は前回の出演者であるが、ビデオも参考にしている。区事務所に「稲しり節」の口上の台本が保存されている。

〔わらび会(エイサー)〕

子ども会の「わらび会」によるもので、子ども会活動の一環である。小学校の運動会で習った創作エイサーをカセットテープを流して演じている。区に残る一九八五年以降のプログラムをみると「子どもエイサー」として、毎回演じられている(2001年プログラムには「わらび会」)。

〔アンマーユシグト〕

婦人会による余興で、2004年(平成16)に初めて演じられた。

「あんまー諭言(ゆしぐとぅ)」は、当区の山内範正が作詞し、普久原恒勇が作曲、仲本興真が踊りの振り付けをしたもので、レコードも製作されている(唄:フォーシスターズ)。

〔下り口説〕

クダイクドゥチと呼ぶ。「上り口説」を上演する場合は必ず演じることになっている演目である。この演目は戦前からの汀間の「手」で継承されてきたが、2001年は公民館を活動拠点とするサークルの一つ、月曜会の出し物として上演された。指導者は同会の教師である。戦前からの汀間の舞い方はフパディー(硬い手)踊りであった。この演目は一人で演じられ、松田義次(故人)が上手であった。現在は彼の甥の松田義也が受け継いでいる。

〔アブジャーマー〕

2001年に初めて演じられた。アンガマの面をつけた老翁と老娘役の二人で踊られる即興的な舞で、上里律子、本村京子が自分らで振り付けた。

〔久米ハンタ前〕

クメハンターメーと呼ぶ。汀間の特徴ある踊りといわれ、必須の演目とされ、プログラム中盤に組まれることが多い。女踊りの一つであり、紅型衣装で女性二人で踊る。前回の出演者の指導やビデオを参考に練習している。出羽「花風節」、中踊り「久米ハンタマ一節」、入羽「さあさあ節」の演奏で踊られるが、工工四については、古典音楽伝承者の城間徳太郎(元沖縄県立芸術大学教授)に松田正吉が教えを請い、現在に継承されている。

〔浜千鳥〕

ハマチドリまたはチジュヤーと呼ぶ。この演目は毎回上演するとは限らないが、1979年(昭和54)の再復活後は第2~5回の「七月踊い」で踊られている。プログラムでの位置は中盤である。紺餅の衣装で、女性四、五人で踊る。前回出演者の指導やビデオを参考に練習している。

〔高平(良)万才〕

タカデーラマンザイと呼ぶ。2001年は、琉舞研究所で精進し、最高賞を受賞した比嘉すぎ乃にその技を披露してもらった。プログラムをみると1985年(昭和60)に踊られているが、1987年(昭和62)、1989年(平成元)、1997年(平成9)はみえない。

〔松竹梅〕

ショーチクバイと呼ぶ。現在では必ず行う演目とされ、プログラム終盤に組まれる。配役に特に決まりはないが、長年女性五人で演じてきた。三線・太鼓の地謡の演奏により、「松」は「揚作田節」、「竹」は「東里節」、「梅」は「赤田花風節」、「鶴・亀」は「黒島節」と「下原節」、総踊りは「夜雨節」と「浮島節」で踊る。

〔青年エイサー〕

セイネンエイサーと呼ぶ。区保管のプログラムによると、1997年以降、行われている。エイサーの詳細は、後述の「エイサー」の項参照。

村踊りの道ジュネーの時には棒が演じられた。タンカー棒という二人で演じるものを含め三演目で、三棒といった。イリギッチャ時代まで行われていたが、現在はない。

村踊り以外にも棒が演じられたことがある。昭和初期頃に久志初等学校で間切行事が行われたが、余興として踊りと棒が演じられた。また、1964年(昭和39)の東京オリンピックの聖火リレーでも、汀間の棒が玉城安助と伊波松三郎によって演じられた。

他に大正時代の終わり頃にも区内のナートウ(湊。干潟)でスーマキ(総巻)棒が演じられたようだ。

区事務所保管の「1962年七月踊りプログラム」に「スーマキ棒」が演目として記されているが、この時は老人会によって演じられた。その後のプログラムにはみられない。

綱引き

旧暦8月11日に行われてきたが、現在では、御願は神人らで行い、綱引きはその後の土曜日か日曜日に合わせて実施している。毎年実施となっているが、行事間近に区民に不幸があった年には中止したこともある。

綱引きの場所は昔の馬場(マーウイ。グンドーともいう)であり、汀間20番地と24番地間の東西に走る道である。そこを分岐点として、北側がクシべー、南側がメーベーとなる。以前はもう一本北側の筋道で分かれていたが、クシべーの人口減により区域を変更した。

綱引きの由来は不詳であるが、古い時代から行われており、区の発展と豊年を祈願するものである。メー(前)べー、クシ(後)べーに分けるが、「クシベーが勝つとユガフ、メーべーが勝つとガシ(餓死)」といわれている。

綱の材料の藁は、羽地や恩納村等稲作を行っている地域へ区長を中心に買い付けに行き、ピックアップ車1トン1台分(2004年現在約10万円)を購入している。ロープ等で代用したことはない。網打ちは区民総出で、拝所のウガミグヮーで行うが、以前は網打ちの場所もクシべー、メーべ一別々で、クシベーは18番地付近、メーベーは24番地付近であった。綱は雌綱と雄綱を各一本、約30m程度打つ。

両綱をつなぐハヌキボー(貫抜棒)は、普段は公民館に保管しており、悪くなったら作り直している。他に綱引きに必要な道具類は、旗頭、ブラ(ホラ貝)、パーランクー(太鼓)、山原竹を束ねて作る松明である。

綱引きの時には、道端に松明を灯し、トゥール(灯篭)を先頭に二手に分かれ、綱引きの場所を七回半道ジュネー(練り歩き)しながら、中央と折り返し点で互いにガーエー(気勢上げ)をする。その後綱引きとなるが、ハヌキボーがしっかりと差し込まれているか確認した後、実行委員長のシグナルと審判長の旗の合図で引き合いが始まる。汀間の綱引きは一本勝負である。雌綱、雄綱の上に護佐丸、阿麻和利風の衣装を着けた中学生が一人ずつ乗り、「ホーイヤ」の掛け声で舞って、士気を高める。

綱引き終了後は角力大会となるが、綱を引きずって角力会場へ運び、区民皆がそこへ集結する。綱は土俵綱や観覧者の座席として利用される。

後日、綱は農家で肥料として必要な家に入札の上、売却する。希望者がない場合は区の花壇の堆肥として使用している。

記録としては、2005年(平成17)の名護市史撮影ビデオがある。区事務所には、1991年(平成3)~2004年(平成16)の綱引き関係資料綴り(「資料編」に一部掲載)とその頃の写真が保管されている。その他に沖縄県文化課の調査資料があり、また、琉球大学民俗研究クラブの『沖縄民俗』(第13号)には「綱引きの時の唄」が掲載されている。

汀間のエイサー

汀間ではエイサーと呼び、毎年旧暦7月15日に行われる。しかし、汀間エイサーの歴史は浅く、1962、3年(昭和37、8)頃に比嘉チル(1908年生)により「恩納エイサー」(手踊り)が踊られたのが起こりである。1970年(昭和45)頃に松田一夫、宮城盛和、野原清和、比嘉悟らによって締太鼓を手踊りから構成される辺野古エイサーが演じられ、それが現在に引き継がれている。当時の地謡は、松田正則、松田正吉らであった。

エイサーは、青年会活動の一環であるが、現在では青年会会員が少ないので、他の区の青年らも応援で参加することがある。運営資金は、ほとんどが各家からの寄付金によるが、区からも補助金がある。

練習は、本番一カ月前から始めるが、日を決めて、公民館や漁港等で行っている。当十五日は、夕方5時頃から各家庭すべてを巡るが、翌朝までかかる場合もある。各屋敷の広さにもよるが、大体二列横隊で踊っている。道順は特に決まっていない。

歌詞ノートを青年会が所持しているが、演目は毎年一、二曲変わっているようである。

楽器は、大太鼓、小太鼓、三線であるが、三線は個人のもので、それ以外は衣装七ともに普段は公民館の青年会専用の棚に保管されている。衣装は、2005年頃新調している。

青年団旗も公民館に保管されている。

汀間のウシデーク