安部・ムラの風景と暮らし

安部・ムラの風景と暮らし

安部ムラには拝みガーのほか、湧水にはウッチダマタのガートゥイガーがあった。これらはいずれも飲料水に適したが、集落の家々では戦前はマツンガーとイズミガー、とくに戦後になってイズミガーだけを利用するようになった。飲み水だけでなく、正月新水(ミーミズ)や産水にもつかった。元日には各家から列をなしてここに新水を汲みに来たので、水を汲めない者も出たという。各家にチンガー(掘り抜き井戸)をもつようになったのは戦後からだが、古いチンガーにはアサギマーにあった大正ガーがある。(大正ガー:大正時代に掘られた井戸で、その水を使い、戦後青年会がそのそばにユーフルヤー(風呂場)をつくった。)いずれも飲料水に適さず、身体を洗うときなどに使うだけだった。現在の国道から上(山側)では井戸を掘ると田の泥のようなものが、また浜側で掘ると白砂が出て、いずれも使い水にしかならなかった。

山田マタから流れる川沿いには多くの水田がある。主にヤマダー、ヒツミダー、ウッチダーなどマタの水田と、平地のウプブックである。なかでもユビダー(深田)は山田マタやウッチダーマタに多く、ウプブックの一部はカニクダー(砂地の田)だった。明治の或る時期以降、これらの水田の多くが借金の代わりにムラ外の人手に渡ったという。その後は水田はカイワキ(刈り分け)小作されるようになる。一期作の半分を小作料として出し、二期作以降は小作のものだった。これら小作料の稲を地主は船を出して取りに来た。

馬を使い山仕事を中心とした近隣の三原に比べて、安部は牛を使う農業中心のムラだったという。だが、水田はムラ外の地主に押さえられ、畑作にむかわざるをえなかった。ムラの周囲の高台、西のイーバル(シキバル崎を含め)でのサトウキビとイモづくりが盛んで、三原や瀬嵩からイモを買いに来るほどだった。

戦前、サーターヤーは安部に二か所あり、ひとつはムラウチのヒラマツの広場、もうひとつはイーバルの台地につくられた。畑ではイモとサトウキビが主だったが、ほとんどの家でサトウキビをつくり、牛を飼っていた。イーバルには与那原・読谷出身の寄留人、真喜屋、屋比久、儀武など数戸が住んでいた(飲料水はカヌシチャにむかう道のわきにあった湧水から汲んだ)。

ムラウチのムラヤーには共同売店が併設されていた。ムラヤーには汀間ノロを乗せるカゴがあり、天井に七月踊りでつかうバンクの材料をあげていた。売店にはソーメン、石油、マッチ、酒などをおき、その前に山原船に渡すメーギ(販売用薪木)の集積場があった。売店ではそれを一括して扱い、品物と交換した。また、個人がじかに山原船に売るサイギ(砂糖樽材料の丸太。一定寸法に切り揃えておく)を浜に出しておく。

山原船の出入りにはボラが吹かれた。満潮時に浜の手前二、三十メートルまで来て、荷物はティンマグヮーで運んだ。

ムラウチの浜の出入り口は、東からカミジョーグチ、ムラヤー前からのナカジョーグチ、嘉陽屋横からのスングヮージョーグチの三つがあった。浜側で二重のアダン林に囲まれた集落の西の砂地は個人の畑地に分かれていたが、その一画に小屋掛けした七月踊りの練習場やワレーウスドゥクマ(ワラビ墓)があった。

亡くなった人を墓まで送る葬列は、家から必ず西側に行く道を通ってスングヮージョーグチから浜に出た。そこでガンを下ろし、手を合わせてワカリ御願をした。浜から川を越え、シキバル東の崖下の墓に納めたあと、再び川を越えたところで手にしたゲーナを捨てた。帰ったあと、ガンを担いだ四人には米を頭に乗せマブイグミの儀礼をし、マブイ御飯と称するものを必ず食べさせた。

ガンを収納するガンヤーは、河口(カーチビ)の川を越えた崖下にあった。その周辺の崖下に掘り込み形式の個人墓が散在する。ムラ墓があったとは聞くが、実際にはこうした個人墓の集合を総称したのではないか。のちにこれら御骨を国道沿いの山裾に移して、一部は門中墓をつくりはじめた(宮城門中、比嘉門中)。

一方、シキバル崎、ギミ崎、オールー島にも由来不明となった御骨や古墓があった。

たとえば、シキバル崎から西に行ったイーバルの崖下には、タカ墓、クバ墓(フワ墓とも)と、両者の中間にもうひとつ、合計三基の古墓があった。タカ墓には四個のズシ甕があり、刀や槍のようなものとともに御骨が散乱していた。フワ墓の方には汀間の玉城、松田門中の人たちが拝みに来たという。東のギミ崎の崖下の岩にも御骨や鉄鍋、椀、貨幣などが目撃されていて、勝連から来てヤマガーヤーを継承した者(カッチンヤー)の古墓もこのギミ崎にあったといわれている。また、オールー島にも御骨があったというが、現在はオールー島に墓をつくるべきでないという認識が一般的になっている。

出典:「民俗3