運天原の文化遺産

運天原には、県指定史跡として「運天原サバヤ貝塚」(昭和31年10月19日指定)が公民館の東隣りにある。今から3000年前~1000年前(沖縄貝塚時代前期後半から後期)にかけての貝塚遺跡で、羽地内海に産する二枚貝が多く堆積している。発見者の多和田真淳氏によると、貝塚の真上の岩蔭は当時の人たちの住居跡とされている。土器・石器類は少ないが、横捺刻文土器・カヤウチバンタ式土器・宇佐浜式土器が確認されている。

また、舟揚場から北に約300m行った右手の丘には、オランダ墓と呼ばれる亀甲墓風の墓がある。二基のニービ製の墓碑が置かれ、向かって右の割れた碑には「大仏朗西国戦船仏肋加特格肋阿巴特爾/老将災大爾 聖号方済各加略之 墓/ 救世一千八百四十六年儒安月二十日病故」と書かれ、左の墓碑には「大仏朗西国戦船歌爾勿特客多利阿斯/ 老将撒慮 聖号亜各伯之 墓/救世一千八百四十六年儒安月十一日病故」と刻まれている。1846年6月6日、フランス艦船3隻が運天港に入港し、7月5日まで通商等の交渉をしたが、王府はこれを拒み、艦船は長崎に向け出港した。その間、6月に二人の乗務員が亡くなり、ここに手厚く葬られた。それがこのオランダ墓である。(昭和58年3月23日、市史跡指定)。墓の管理は、はじめ今帰仁番所が、その後運天原の人たちが当たってきた。

なお、名木としてナハーシの平松(樹高8m・推定樹齢150年)がある。

太平洋戦争と沖縄戦で、運天原の戦死者は40名を数えた。公民館の真南、ソージナガー沿いの丘に、彼等を祀る慰霊塔が建つ。

運天原では、寄留士族の家を中心に地域資料が伝わる。小浜家の「仕明請地帳」(1865年)、花城家の証文(1876年)、売渡証書(明治32年~昭和17年)14点、製塩場移転願指令書(明治39年)、また上地家の借用証書類8点など、運天原でこれまで43点の地域資料が確認されている。今後の新発掘も大いに期待される。

出典:「わがまちわがむら