大中

大中区[おおなか・く]

大中区の現況

世帯数:921世帯 人口3,016人 面積0.61k㎡

大中は、方言でオオナカと呼ばれ、旧大兼久の中心部をなす。大兼久は、方言でポーガニク(ポーヌク)と呼ばれ、大きな砂地を意味する。

大中区の行政区域は、小字大兼久原・天田原・大堂原・知真嘉原・嵩原のそれぞれの一部からなっている。

集落は、古くは護佐喜宮から名護小学校に至る丘を背景にして、南西の方に碁盤目状に形成されていた。沖縄戦でほとんどが焼失した。戦後再編され計画的に形成された集落である。現在、市街地の主要な一画をなしている。戦後、北東の丘陵地に住宅が広がった。

主な施設に、護佐喜宮(昭和4年竣工)・九年又ダム(同22年完成)・沖縄銀行名護支店(同32年)・天田原浄水場(同33年)・県立名謹保健所(同37年)・名護大中郵便局(同37年)・名護教育会館(同37年、後に国頭教育会館となる)・市立中央保育所(同40年)・沖縄県林業試験場(同41年)・市立崎山図書館(同41年)・県立名護病院(同42年)・北部会館(同48年)・名護市夜間急病診療所(同50年)・国頭教育事務所(同55年)・名護市営市場(同55年)・沖縄県緑化センター(同56年)・名護市商工会会館(同61年)・官公労共済会北部会館・名護電報電話局・名護農業協同組合・名護農協大中出張所・連天産婦人科・宮城歯科・儀保小児科・辻眼科などがある。

大中区のあゆみ

先史~古琉球の大兼久

かつての大兼久の区域に、名護貝塚・アパヌク貝塚・大西区遺物散布地・大堂原西遺跡・大堂原東遺物散布地・大中区土器出土地がある。

名護貝塚は、小字大兼久原にあり教育会館一帯に位置する。沖縄貝塚時代後期の遺跡で、土器・石器・貝などが採集される。

アパヌク貝塚は、小字大兼久原にありヒンプンガジマルの北側に位瞳する。沖縄貝塚時代後期以降の遺跡で、沖縄貝塚時代後期の土器が採集される。

大西区遺物散布地は、小字暗川原にあり名護小学校の北側に位置する。市街地の北側の丘陵地の上部にある。土器が数片採集されているが、時代ははっきりしない。

大堂原西遺跡は、小字大堂原にありグスク時代後期から近世にかけての遺跡である。名護小学校の北東200mの位置にあり、グスク時代の土器、また青磁・染付・沖縄製陶器・赤瓦・貝類・獣骨などが採集される。

大堂原東遺物散布地は小字大堂原にあり、沖縄貝塚時代後期から近世にかけての遺跡である。沖縄県林業試験場入口の南側に位置する。土器・青磁・染付・沖縄製陶器・赤瓦・貝類などが採集される。

大中区土器出土地は、小字大堂原にあり県立名護病院の裏に位置する。土器・沖縄製陶器・赤瓦・貝類・獣骨などが採集されているが、時代ははっきりしない(名護市の遺跡2)。

近世の大兼久

17世紀中頃の「絵図郷村帳」に、かねく村・名護村・城村の三力村がみえる。「かねく村」は大兼久村とみられる。17世紀中頃の「高究帳」や「由来記」(1713年)では、大兼久・東江・城の三ヵ村の名は見えず、「名護村」と記される。

「高究帳」にみる三ヵ村を含んでいる名護村の石高は、447石余り(田432石余、うち永代荒地39石余含む、畠14石余)であった。名護間切で最大の石高を示している。

1713年の「由来記」に大兼久の村名は出てこないが、夫地頭に大兼久大屋子と仲兼久大屋子、それに大兼久掟が出ており、大兼久村があったことがしれる。「大兼久」の村名が史料に出てくるのは、近世末の同治4年(1865)になってからである(地方経済史料)。

近現代の大中(大兼久)

大兼久の明治13年の人口は、戸数201、人口1,016人(内男513)を数え、当時の名護間切13力付では屋部に次いで第2位の人口規模である。なお、同36年の大兼久の人口については、大兼久・東江・城が一緒にされて名護村となったので、不明である。

近代の名護村(東江・城・大兼久を合わせて名護三箇と通称)としての人口を見ると、明治13年には、戸数428、人口2,210人(内男1,113)を数える。同36年には3,710人(内男1,895)で、この間に人口は1.7倍に増えている。また、同年の平民人口2,813人に対し士族人口は456人(13.9%)である。

士族人口の比率があまり高くないにもかかわらず、1.7倍に人口が伸びたのは、この名護三箇が行政・商業・交通の中心地として成長してきたことの反映であろう。

明治36年の土地整理のとき、大兼久・東江・城の三力村が合併して名護村となったが、祭祀や村の行事は別個に行なった。同41年に「沖縄県及び島喚町村制」が施行され、名護間切は名護村になり、名護村は字名護となった。翌42年に議会は、字名護を行政区大兼久・東江・城に戻す決定をした。

明治23年に国頭高等小学校が創立された。部内唯一の高等小学校であった。当初名護尋常小学校の職員控室を借りての開校であった。同24年に、大兼久村の背後に敷地を決め新築工事に着手し、翌25年には大建築の校舎が完成し移転した。各間切毎に高等小学校を設置するに至り、国頭高等小学校は明治35年に廃校となった。その校舎は、国頭農学校に使用された。同44年には県立農学校と改称され、大正5年に嘉手納に移転された。昭和5年に国頭高等女学校が、沖縄県立第三高等女学校と改称して再出発した(戦前新聞集成2)。

ヒンプンガジマルから名護十字路にかけた中央通りは、かつての大兼久馬場である(後述)。明治31年に催された名護の天長節の奉祝は、大兼久馬場は立錐の地がないほど混雑した。その時行なわれた名護綱引は、国頭郡で最初の綱引であった(戦前新聞集成1)。なお、戦後昭和28年に戦後復興の気運をもり立てようと、大通りで商工会主催による名護町大綱引が催された。

明治39年、喜入郡長と黒岩農学校長が中心となり、喬木の瀞蒼と繁る護佐喜宮御宮を名護公園にすることを決めた。その工事に使役した人夫は、延約700人であった。計画の4分1しか達成できなかったが、道路は3分2の完成をみた(前掲書)。その後、昭和14年に護佐喜宮改築の10周年記念事業の一環として、名護公園一帯にテニスコートや文化的な設備を整える計画がなされている(前掲書)。

明治32年には、大兼久馬場の両側に商店や銀行・質店・旅館などが3,40軒立並び、茅葺家も年々減少し、街としての様相をみせてきた(前掲書)。

昭和19年、戦時体制下のもとで、隣組組織の強化や人口が多いこと、それに大面積であることを理由に大兼久は大中・大東・大西・大南・大北の五つの行政区に分割された。その大中区が現在につながる。地籍は、まだ未分離のままである。

昭和56年、大中区に大堂原第1地区土地区画整理事業が完成した。第2地区は、地主が主体となって着手された。

大中区は、旧大兼久の中心区域で、市街地の一画を構成するとともに、早い時期から人口集中が進んだ。戦後の人口の動向を見ると(推移グラフ参照)、昭和35年には387世帯・1,837人であった。その後人口は、昭和42年に一時減少する以外は、同47年にかけて平均毎年115人程の割合で増加し、同47年には3,220人に達した。それ以降昭和54年までは3,100人台で推移したが、同55年からはやや減少し、昭和60年現在3,016人を数える。この25年間では1.6倍に増えたことになる。世帯数も、人口の増加と並行し、昭和54年まで大きく増加を続けたが、その後伸びが鈍化し、昭和60年現在921世帯を数える。25年前に比べて2.4倍に増えた。

大中区の産業の現状を産業別就業者の構成について見ると(同表参照)、就業者1,303名の内、第1次産業2%、第2次産業19%、第3次産業79%という構成で、第3次産業に従事する人が8割を占めている。就業者の数はここ15年で1.8倍に増えたが、産業ー就業者の構成は変わっていない。

最も多く従事する第3次産業では、サービス業が多く(47%)、卸小売業(35%)がそれに次ぐ。第2次産業では建設業が多い。

市街地のため、地内に農地は少ないが、28戸の農家で22haの経営耕地を持っている。作物は、近年増えてきた花き類が多く、キビ・野菜類がそれに次いでいる。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の御嶽は、大東の項に記した通りで、また、当時の月々の祭祀は一覧表の「由来記」記事に見る通りである。

分区前から村の中心であった大中区には、旧大兼久村の重要な拝所である護佐喜宮がある。旧8月10日には、大東・大西。大南・大北と合同で護佐喜宮例祭が持たれ、公民館では豊年踊りが披露される。

現在、伝統的な年中行事は少なくなったが、旧8月10日の護佐喜宮例祭には護佐喜宮を、11月の火の御願には具志川屋、ヒンプンガジマルの根元の拝所、イケラガー、そして護佐喜宮を拝む。

芸能

旧大兼久は、大東・大中・大西・大南・大北の5区に分区したが、豊年踊りは合同で行なわれる。中心となる大中区の護佐喜宮の前には、公民館に接続された常設の舞台もあった。新しく造られた公民館の中にもりっぱな舞台が設置され、地域の芸能を大切にする伝統が生きている。

現在、豊年踊りは護佐喜宮例祭と呼び、5区の区長を中心に委員を選出して運営に当たっている。以前は旧8月9日・10日・12日の3日間行なっていたが、その後、旧9月9日を正日に3日間やった時期もある。

戦前、女子が舞台に立つことはなく、小学校を卒業し村に残った男子は、踊り方か棒方に組まれるのが義務だった。踊り方に選ばれるのは家や親戚の名誉とされ、練習期間中から厚いもてなしを受けた。棒方は踊りの初めと終わりに棒を演じた。特に、初めにやるスーマキ(総巻き)は圧巻であった。道ジュネーの際、2本の旗頭を持つのも棒方である。今では棒方を務める若者が少なくなり、村の先輩方は寂しがる。

棒の後に出る長者の大主は、戦前からの形をそのまま伝えている。また、組踊も盛んで、戦前までは踊りの最後にやる他、中組物といってプログラムの中程にもやっていた。得意とするのに「忠孝婦人」「久志の若按司」「森川之子」などがある。

エイサーは青年会を中心に行なわれる。ティーモーイ(手舞い)を中心とした軽快な踊りである。

文化遺産

大中区には指定文化財はないが、名木や碑がいくつかある。護佐喜宮の階段を上がる途中の左手にアコウの大きな木がある。推定樹齢60年で、老樹には至らないが、聖域にふさわしい姿を保っている(名護市の名木)。

いくつか注目される碑が建っている。大通りの沖縄銀行名護支店前には、「名護の大兼久 馬走らちいしよしゃ 船走らちいしよしゃ わ浦泊」と、よく知られる大兼久節の歌碑が建っている(昭和38年建立)。かつての大兼久馬場は長さ120間(216m)・幅8間(約14m)であったが、この歌には往時のこの地の風情が詠み込まれているようだ(宮城盛雄:名護碑文記)。明治末から大正頃の大通りの古い写真には、見事なセンダン並木が見える。

現在の北部会館の場所には、明治35年国頭郡組合立の農学校が設立され、その初代校長として黒岩恒氏(くろいわ・ひさし 高知県出身)が赴任した。氏は、近代沖縄の自然学の開拓者として、また農作物の優良品種の導入と普及に功績が大きく、そして教育者として山原から数多くの人材を輩出させた。昭和43年、教え子たちによって、氏の事跡と漢詩を刻んだ「黒岩恒先生顕彰碑」が建立された(名護碑文記)。また、護佐喜宮は名護では初期のコンクリート建築として清村勉氏(熊本県出身)の手で設計された。拝殿の下に「護佐喜宮」と刻まれた碑が建つ(岸本金光:前掲書)。

最近、北部会館敷地内に「三高女発祥の地記念碑」が、同窓会の人々によって建立された(昭和62年)。

大中の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

1.14 区新年宴会

1.16 都計促進委員会

1.18 公民館設計説明会

1.22 建設委員会*本年はあと3回開催(6、10、12月)

1.24 福祉懇談会

1.28 代議員会 *ほぼ毎月開催

2.2 成人病相談

2.15 行政研究会

2.19 福祉懇談会

▲ 旧2月 ミヤタネ(由来記)

3.13 事業計画予算編成会議

3.19 福祉懇談会

3.27~30 春休み夜間校外指導

▲旧3月 四度御物参(由来記)

4.9 会計監査

4.11 青少年健全育成会役員会 *本年はあと6、7月に開催

4.16 福祉委員会

4.19 都計促進委員会

4.21 親子レクリエーション

▲ 旧4月 山留(由来記)

5.10 体育委員会 *あと10月に開催

5.14 公民館講座

5.18~19 子ども会リーダー研修会

5.19 区民運動会、総会

5.28 産業部会

5.30 体育部会 *あと9月に2回開催

▲稲穂祭三日崇(由来記)

▲稲穂祭

▲山留(由来記)

6.16 産業展示会

▲旧6月稲穂大祭(由来記)

▲旧6.25年浴(由来記)

7.6~7 子ども会リーダー研修

7.14 バレーボール大会(区主催)

7.15 公民館建設地鎮祭

7.21~30 夏休み校外指導

▲海神祭(由来記)

8.9 親子映写会

8.11 区内清掃

8.19 総務・文化部会

8.28~31 エイサー、納涼大会

▲四度御物参(由来記)

▲柴指(由来記)

9.15 敬老会(区主催)

9.18 図瞥委員会 *10月にも開催

9.20 区章選定委員会

9.22~24 護佐喜宮例祭(旧8.8~10)

9.24 福祉施設視察

10.1 中部の図書館施設視察

10.22 九月御願(旧9.9)

10.24 福祉委員会

11.5 都計促進委員会

11.8 かりゆしの村奉仕作業(福祉委員)

11.11 総務部会

11.18 8班都計懇談会

11.19 7班都計懇談会

11.20 4班都計懇談会

11.24 火の御願

▲芋ナイ折目(由来記)

12.6 かりゆしの村奉仕作業(福祉委員)

12.13 冬休み校外指導協議会

12.20 総務委員会

12.26 公民館工事完了慰労会

12・ウタカビウガン