親川

親川区の現況

世帯数:99世帯 人口:355人 面積3.lOk㎡

親川は、方言でウヤガーあるいはウェーガーと呼ばれる。土地の重要な井戸にウェーガー(親川)があり、村名もそれにちなむと言われる。親川は、近世田井等からの分村である。近世から明治にかけて羽地間切の番所がおかれた。

集落は、アプハミヌミャーを含む丘陵のふもとにあたる小字ウェーガー(親川)が古く、その後、東のメータ(前田)や国道58号線を越えた南のジョーマシ(上増)・ピームイヌメー(碑文前)の沖積低地に広がっていった。このあたりでは、景観から田井等と区別できないくらい揮然一体となっている。集落北側の丘陵地一帯は、昭和60年の土地改良事業で地形が一変して平坦地となり、キビ畑になった。

羽地大川は、南方の山手に水源を発し北に向かって流れ、碑文前と上増付近で北東に曲がり仲尾次で羽地内海に流れ出る。

親川区のあゆみ

先史~古琉球の親川

親川には、親川グシク遺跡と羽地間切番所跡がある。親川グシク遺跡は、丘陵の頂上部分に石囲いの一部が残っている。グスク土器や中国製の青磁・染付・南蛮陶器などが採集されている。このグスクは、羽地按司が築いたが工事の途中で中断し、北山(今帰仁)城に移りほとんど使われなかったとの伝承もある。

もうひとつの羽地間切番所跡遺跡は、古琉球から近世にかけての遺跡である。番所跡地は、親川集落の北側の丘陵地に位置し、その起源は古琉球に遡る。中国製の青磁や染付・白磁、沖縄製の陶器や赤瓦などが採集されている(名護市の遺跡2)。

近世の親川

親川村が田井等村から分立したのは、1736年だと言われるが、いつ分立したかは、はっきりしない。史料では、「羽地間切針竿帳」(1742年)に「田井等村前親川親雲上」と見え、また「羽地間切肝要日記」(1844年)に「親川村」がでてくる。1742年の「羽地間切針竿帳」は、今の親川を中心とした羽地間切中部地域の針竿台帳で、その時図根点として使われたハル石に「たこ川原」がある。今の小字親川付近は「たこ川原」であったことが知れる。

親川村が成立すると田井等番所(羽地間切番所)は、親川村の地内となったため親川番所と呼ばれるようになった。番所付近には、惣地頭屋敷やハンジュイ(神所)などがあった。番所へ通するスクミチ(宿道)や番所から仲尾の勘定納港へ仕上世米や貢租などを運ぶ主要道路が通っていた。

1853年にペリーの探検隊が勘定納港から上陸し親川にきた。その時の状況を「羽地村誌」は次のように記している。「海路の一隊が羽地湾に入り、勘定納港から上陸して番所のある親川の部落にやってきた。村人は、毛唐が来るというので驚いてみな山へ逃げかくれた。ところが屋号下道という一旧家の主人が病床に臥して遁げることができない。娘が残って看護していると、そこに碧眼紅髪の一隊が短銃を携えて入ってきた。病人の手をとり額をおさえたので殺されるかと娘はびっくりした。ついでに粉末の様なものを渡されたので、これも毒薬ではないかと疑ったが、手様手まねでようやく薬だとわかり、それで病気は癒ったという」。この話は、ペリーの「遠征日記」にも記録されているという。

近現代の親川

近代の親川の人口の動向は、まず明治13年には戸数80、人口435人(内男218)である。同36年には548人(内男279)で、この間に人口は約1.3倍に増えた。また、同年の平民人口505人に対して士族人口は39人(7.2%)である。下って昭和14年には戸数89、人口364人(内男171)を数える。その60年前に比して、戸数は1.1倍に増えたが、人口は14%減少している。

戦後の人口の動きは、推移グラフに見るように、昭和35年に411人、その後少し増えるが、同41年頃から僅かながら減り始める(昭和44~46年の急増は田井等との出入りによると考えられる)。昭和60年には355人で、25年前に比べて14%ほど減ったことになる。世帯数の変動はほとんどなく、近年はやや増えつつある。

明治12年(1879)に羽地番所内に首里警察署羽地分署が置かれ、翌13年国頭地方役所が置かれた。同15年に名護間切大兼久村に移転した。

明治15年、沖縄県下各地間切に公立の小学校が設立された。羽地間切では、はじめ親川の間切番所の部屋を借りて羽地小学校が出発した。当時、児童は50名程にしか過ぎなかった。同21年には、番所のすぐ東下の所に、国頭郡では初めての独立の校舎が建築された(78.25坪)。当時としては、大きな学校だという評判であった。

明治34年に高等科が併置され、翌35年に仲尾次の現羽地中学校の敷地に移転した。当時の児童数は706名、校地2,500坪、校舎395坪という壮大な学校で、県下でも大評判になった(これ以降のことは田井等の項参照)。

こうして、羽地間切の行政の中心が親川から仲尾次へと移った。そのころ、県道が親川をかすめるように田井等寄りに新しくできたため、親川番所へつながっていたスクミチ(宿道)は主要道路としての役目を終えた。

明治14年に国頭地方を巡回した上杉県令の「沖縄県巡回日誌」に、羽地番所と付近の様子を「門西に向ひ、門柱の両辺叢篠の生垣あり。仏桑華、三段花盛に開き、庭梅花を着け雪を欺く。東北に当たりオツク(ウスクか)の大木あり。5~600年のものなり。其南北は医院分局なり」などと記されている。

戦後すぐ、避難民が収容され人口が72,000人に増え、親川と田井等と川上の三力字を一つにして田井等市ができた。その時、市役所・警察署・情報局などが親川に設けられた。

昭和33年に簡易水道が設置された。同37年頃の職業および作物や家畜の統計をみると、働く人の3分の2が農業に従事していた。馬車運送やバスの車掌も重要な職業であった。作物では米がキビを上回り、バナナがパインと同じ位の面積をもっていた(字親川郷土誌)。

親川の産業の現状を就業者の構成で見ると(同表参照)、就業者145名のうち第1次産業23%、第2次産業21%、第3次産業56%という構成で、第3次産業(サービス業・小売業に多い)が半ば余りを占めている。現在の就業者構成に変わったのは、昭和45~50年の時期であるが、ここ5年についても第1次産業(農業)が大きく減る一方、第3次産業が伸びている。

農業について見ると(農業基本統計表参照)、親川はキビ作を基幹としている。ここ15年の間に農家数は3分の2に減り、また経営耕地面積も全体として30.5haから19.5haへと3分の2に減っている。作物の収穫・栽培面積では、ここ15年間に半分弱に減ったが、中でも水稲・パインが激減している。昭和60~61年度にかけて土地改良事業が進められ、それまでの丘陵地形は一変して大区画のキビ畑が造成された。今後の新しい農業の展開が期待されている。

畜産は、以前養豚200~400頭規模で飼養されていたが、今はなくなった。

伝統文化

拝所と祭祀

親川は、「由来記」(1713年)にはその村名がみえない。ただ、田井等村の項に記される池城神アシアゲは、村が分立した折りに親川の地に入ったとみられる。

現在の親川の集落をはさむように、西にアプハミヌミャー、東にメーラヤマーがある。メーラヤマーには土帝君が紀られる。アブハミヌミャーからほぼ南北に稜線上を神道が通り、南はテーヤアサギ、北はウエーガーグシクに至る。ウエーガーグシクのすぐ下にグスクアサギがある。さらに北側、仲尾とを分ける稜線上にヒチグシクという男子禁制の拝所があり、ウンジャミのとき重要な拝所となる。

集落の北の外れに接してハンジュイとイチグシク火神がある。拝井泉として、親川の名の由来ともなったウェーガガー、ノロが神酒を作る際に汲むというマハーガーなどがある。神役は田井等と一つである。

現在も続く伝統的年中行事は、表に見るように、旧1月10日の初御願、3月3日の浜下りと浜焼香、4月のアブシバレー、7日の村清明、5月15日のイニヌプーウガン、卯の日の風の御願、6月24日から26日の六月折目、7月卯の日のウンギャミ、8月8日のワラミキウグヮン、8日と9日の豊年祭、10日のスバーシ折目、9月7日のミャーダニウガン、11月のウンネーウガンなどがある。

芸能

親川の豊年踊りは、田井等と合同で1年毎に行なう。旧8月6日から9日の4日間のうち、6日のメーズクミ、7日のスクミを親川公民館で催す。演目も演者も田井等と同じである。

出演者を紹介する総踊りではじめ、獅子舞・長者の大主の後に雑踊りに入る。その後、組踊が演じられ、もう一度獅子が舞い、そして棒でしめくくる。

青年によるエイサーはなく、区民みんなで盆踊りを楽しんでいるc

文化遺産

親川には、指定された文化財はないが、親川グシクや羽地間切番所跡などきわめて重要な史跡がある。北の仲尾から親川そして田井等に至る地域は、史跡・文化財の”宝庫”であり、グスク時代から近世・近代にかけて、細かく見れば30箇所を越える歴史的な場所がある。名護市内でこれほど史跡が集中的に残され、かつ1000年の地域の歴史の歩みを具体的にたどることのできる地域は他にはないであろう。

親川グシク(羽地城とも呼ばれる)は、石垣(上部は壊されている)によって3つの区域に分けられる。規模では、名護市内最大のグスクである。名謹グシクが石垣を欠くのと対照的であるが、堀切がある点は共通している。築城時代は、遺物から見て14世紀と想定されている。詳しい発掘調査は今後の課題であるが、発掘調査によって未解明である羽地地区の歴史の重要な部分が明らかにされるであろう。

その南に位置する羽地間切番所(親川番所)も重要な史跡である。昭和61年度に発掘調査が行なわれ、大量の赤瓦や中国製の青磁をはじめとする古琉球(グスク時代)以降の遺物が収集された。また、石垣遺栂も確認され、当時の番所の姿がほぼ明らかにされた。

親川ではハル石が二基見つかっている。公民館のすぐ裏の丘に、「キ・たこ川原」と刻まれたものが、元の場所から少し移されてはいるが、現存する。”あゆみ”の項で触れたように、「たこ川原」は今のところ確認されない地名であり、今後への興味が残る。もう一基は親川グシクにあったもので、「し・くすく原」と刻まれる(現在所在不明)。なお、くすく原(城原)は小字として伝わらず、親川グシクの狭い範囲に用いられたものかも知れない。

今ひとつ興味をひくものに石敢当がある。旧嵩川屋敷のそばに二つの石敢当が設けられた。一つは文字のないものだが、もう一つの1mほどのニービの石には「當石散」と刻まれ、大きな石敢当である。土地改良で地形が変わったので、現物は名護博物館で保管している。

親川では、神拝み「割符帳」関係の民俗史料が4点確認されている。他に、区に戦後間もない頃の「御願帳」が2点保管される。

川上清栄・平良盛吉両氏による「羽地村字親川郷土誌」(1962年)は、小冊子ながら、名護市内で初めて出版された記念すべき字誌である。

親川に伝わる伝説のうち、次の一話を紹介する。

アーマンチューの足跡

大昔、天と地がまだ近かった頃、人間は生活がしにくかった。そこへアマミキヨがきて、真喜屋大川と羽地大川の石の上に足をふんばって天を押しあげた。その時に、今の天の高さになったそうだ。また、羽地大川のトゥシという所には、その時にふんばった足の形のついた石があったというが、今はない。

(昭和60年民話調査より)

親川の小字一覧

ウェーガー[親川/親川]

メータ「前田/前田]

マハマタ[真嘉又/真嘉又]

イューグムイプロー[魚小堀原/魚小堀]

イパージャフ[イパザフ/イハザフ]

ジョーマシ[上増/上増]

(ピームイヌメー)[碑文前/碑文前]

ダキヌクチ[竹ノロ/竹ノロ]

トゥコードゥヌ[多幸田/多幸点]

シガーマ[次我真/次我真]

アップハー[大川/大川]

ハンジャヌマター/ハンジャラマター[カジラ又/嘉次良又]

ウジュルマタ「ウジル又/ウヅルマタ]

親川は13の小字からなる。ウェーガーが集落の中心部にあたる。北のイパージャフには親川グシクや羽地間切番所跡がある。イューグムイブローは、かつて池城親方のための養魚池を設けたことに因ると伝える。南のピームイヌメーには、察温の羽地大川改修を記す「改決羽地川碑記」が建つ。シガーマ・アップハー・ハンジャヌマター・ウジュルマタは羽地大川上流域に位置する。ハンジャヌマターには以前鍛冶屋があったと伝承される。

親川小年表

1736年 谷田村の一部を加えて田井等村より分村したという。

1844年 しぶちや又山の開地作職を願い出る。

1853年 ペリー一行勘定納[かんてな]に上陸、親川の羽地番所を訪れる。

1879年9月 番所に首里警察署親川分署を設置。

1880年6月 国頭地方役所を番所に置く。

1882年1月 国頭地方役所を名護大兼久村に、警察分署を名護間切番所内に移す。番所に羽地小学校を設置。

1899年10月 親川夜学会を始める。

1901年 番所を仲尾次に移転。

1902年 高等科併設にともない、羽地尋常小学校を仲尾次に移転。

1929年8月 親川共同製糖場(宮城源時代表)、碑文前に改良製糖場建設の補助金を県に申請。

1937年6月 字事務所を新築。

1938年 仲尾・田井等間の里道を拡張・改修。茶の共同栽培に着手(番所跡570坪、山奉行所跡115坪)したが戦時体制下で失敗、あと字の共有地にする。

1945年 田井等を中心に収容所が設けられ、田井等市が設置された際、その市役所・警察署・情報局等が親川に置かれる。

1958年 簡易水道新設。

親川の行事・活動一覧 昭和60年1~12月

1.2 交通安全祈願祭

1.11 評議員会 *予算審議

1.11 老人会総会

1.16 一般常会 *予算承認

2.19 土地改良理事会

2.20 旧正

2.25 お宮の清掃(老人会)

▲田植御願(旧2.4)

3.1 初御願(旧1.10)

3.7 ジューロクニチ-・ミーサ(旧1.16)

4.22 ハマジョーコー・ハマウリ(旧3.3)

4.25 評議員会

4.26 一般常会

5.20 清掃週間(~26日)

5. アブシバレー( 旧4月) *仲尾・田井等・川上と共催

5. 村ジーミー( 旧4.7 )

6.2 区民連動会

6.23 婦人会バレーボール大会

7.2 イニヌプーウガン(稲穂祭、旧5.15)

7. 風の御願( 旧5.卯)

7.28 夏休みPTAピクニック

8.4 美化作業

8.5 評議員会拡大会議

8.10~12 ルクグヮチウイミ(旧6.24~26)

*24-大符折目御願、25-稲束取山積折目、26-屋探御願

8.22 七夕(旧7.7)

8.27 ハンジューヤシキにてウグヮン

8.28 ウンギャミ(旧7.卯)

8.29~30 盆踊り(旧7.14~15)

9.15 青年会観月会

9.19 老人会城草刈り作業

9.21 ワラミキウグヮン(旧8.8)

9. 豊年祭( 旧8.8~9 ) *隔年

9.24 スバーシウイミ(旧8.10)

9.29 十五夜御願(旧8.15)

10.20 ミャーダニウグヮン(旧9.7)

10.22 クングヮチクニチ(旧9.9)

▲クントゥイ御願(旧10・卯)

11.9 農事視察

12.3 ダム対策委員会

12.8 ウニムーチー(各戸)

12.15 子供の遊び場起工式

12.16 ダム対策委員会

12.17 評議員会

12.20 ウンネーウグ、ヮン(旧11.卯)