旭川のあゆみ、小年表

旭川小年表

1943年 行政区旭川として独立。

1945年4月 住民は田井等収容所に収容される。10月末帰還が認められる。

1955年頃 パインとキビが主な農作物となる。

1969年9月 私立三育中学校開校。

旭川のあゆみ

先史~古琉球の旭川

旭川地内には、遺跡は確認されていない。

近現代の旭川

この地にいつ頃から人が住み始めたのかは定かでない。言い伝えによると、宜野湾の喜友名の人が最初に住んだという。また、仲上原には、ティラヤマと呼ばれる鍾乳洞があり、昔そこに坊主が住み着き布教したという。今でも仲上原の人たちは、旧暦3月にそこを拝んでいる。

戦前までは、藍作りと砂糖製造が盛んだった。藍は藍玉にして出荷し、砂糖は各小集落ごとにあったサーターヤーで製造して売りに出した。田はナポリガーやアタドーと呼ばれる低地にわずかにあった。中には宇茂佐原や志味屋原などに田を持っている人もいた。

大正の後半から昭和にかけて南洋移民が盛んになった。旭川の比嘉敬栄氏は初期の頃に南洋に渡り敬栄組を設立して、旭川や屋部の出身者を多く雇用した。

戦時体制が強まった昭和18年に、旭川と中山が分区独立した。旭川では分区の際に、区の名前をどうするかが問題になり、青年団を中心とする若いリーダーたちは、「朝日のごとく、流れる川のごとく」ということで「旭川」を主張したが、長老たちの反対にあった。「旭川」は北海道の大きな市の名で、名前に負けてしまうので、「福地原」の「福」をとって「福川」がいいだろうというのが長老たちの意見だった。若いリーダーたちはそれに反対し、名前負けなんかしないと発奮して「旭川」を押し通して現在に至った(呉屋永松氏談)。

その勢いが大きな力となって、屋部村独立後に行なわれた原山勝負では、常に優秀な成績を収め、昭和27年からは4年連続一位の座を占めた。同26年には敬老会を兼ねた村踊りが始まり、部落をさらに活気づけた。また、昭和41年時点で過去9年連続納税率100%の成績を収め、その成績はそれ以後も続いた。

昭和26年、沖縄各地に被害を及ぼしたルース台風のため、公民館が倒壊した。区ではその建て直しのために、倒壊した公民館の写真を海外にいる出身者に届け、寄付を仰いだ。その時の寄付者氏名は、新しい公民館の壁に掲げられている。

昭和30年頃から山々を開墾し、パインの栽培が始まり、キビと共に主な農作物となった。

昭和44年、風光明媚な道又原の山上に私立沖縄三育中学校が開校した。

出典:「わがまちわがむら