我部祖河

我部祖河区の現況

世帯数:169世帯 人口:619人 面積2.45k㎡

我部祖河は、方言でガブシカと呼ばれ、古く「おもろさうし」では「かふすか」とあり、近世になると「がぶそか村」・「我部祖嘉村」とも記される。

旧羽地村の西部に位置し、集落の東部にかつての大美田パニジターブックヮ(羽地田袋)が広がっていた。昭和40年頃まで17~18町歩の水田があり、今では語り草になっているのどかな田園風景がみられた。その中を我部祖河川が北西に流れ、奈佐田川と合流して羽地内海に流れ出る。

集落の中央を本部循環線が通り、それに沿って新しい集落が形成されている。集落の核心部分は、小字ガブシカー(我部祖河)である。その一画に県の有形民俗文化財に指定されている我部祖河の高倉がある。

主な施設に、羽地農協河知支所と稲田小学校がある。

我部祖河のあゆみ

先史~古琉球の我部祖河

我部祖河には、古琉球以前の遺跡は今のところ確認されていない。

近世の我部祖河

近世の我部祖河は、17世紀中頃の「絵図郷村帳」に「がぶそか村」、「高究帳」に「かぶそか村」と記され、1713年の「由来記」から「我部祖河(嘉)村」と漢字が充てられるようになる。「高究帳」による石高は182石余り(うち田180石余、畠1石余)で、圧倒的に水田が多い(99%)村である。

1850年(道光30)、「とう山」にある「仲のあらし山」のことで我部祖河村と饒平名・我部の三ヵ村が難渋しているため、七ヵ村(饒平名・我部・仲尾・呉我・古我知・振慶名・我部祖河)の頭[かしら」たちが揃って吟味した。「とう山」は大昔から七ヵ村組合の山であり、去る卯年(1843)までやってきた通り保謹すべきである。今後、何か難渋がでてきたときには科[とが]を仰せつける旨の証文がある(地方経済史料)。

1855年(威豊5)我部祖河と伊差川境内に湿地が7万2,057坪余りもあり、うち3万5,000坪余りに稲の作付けをしたが実りが少なかった。王府は、惣地頭に地勢を視察させ渡名喜親方に命じて管理をまかせ、川原奉行と係、それに筆者に各3人ずつを配置して1,828間の水路を通した。水田1,262坪と旱田35,682坪を開き、翌年から作付けをはじめ生産をあげた。また、土性に応じて作物が植えられ種類が増えた。都路川にある小溝、それに柚山川辺から改めて130間の水路を引いたため、我部祖河村の水田は都合よくなった(球陽)。

道光9年(1829)、琉球は1824年から27年までの間に度々大飢餓にあい、国中から銅銭を借り入れることになった。幸い、羽地間切我部祖河村の前地頭代川上親雲上や名護間切地頭代東江親雲上などから、銅銭五千貫を借り入れることができた。その善行に対して、褒賞として中布三端を賜った(球陽)。

羽地間切の三大ウェーキのひとつである我部祖河ウェーキは、間切役人も出した家柄であった。初代の宮城下庫理(康照24年没)の時代に仕明地を持ち、ウェーキの形成の基礎を固めたと言われる。また、多くの土地が我部祖河ウェーキの所有地で、村の多くの人たちが小作農として働いていたという(ふるさとの顔)。

近現代の我部祖河

近代の我部祖河の人口の動きを見ると、まず明治13年には戸数101、人口537人(内男278)である。同36年には622人(内男315)で、この間人口は約1.2倍に増えている。また、同年の平民人口621人に対して士族人口は23人(3.6%)である。下って昭和14年には戸数127、人口505人(内男243)で、その60年前と比較して戸数は1.3倍に増えたが、人口は6%減っている。

戦後の人口の動きは、昭和35年に626人、その後小さな変動はあっても600~650人規模で推移してきて、昭和60年には619人を数える。その結果、25年前に比べて1%の減となっている。一方、世帯数はこの間約1.4倍に増えた。

明治38年あるいは同43年の大雨で羽地大川の堤防が決壊し大洪水となった。関係地主では復旧工事の見込みがたたず、村事業にすべきだと意見が出された。羽地大川と関係ない字もあり同意が得られなかった。下流の我部祖河辺りでは川床が高くなり、大雨になると直ちに浸水し農作物に被害がでた。そのために、比較的抵抗力のある甘藷に切り替えられ、羽地田袋に甘藷畑が目立つようになった(戦前新聞集成2)。

戦後、昭和40年から我部祖河と古我知、呉我にまたがる羽地田袋一帯の100町歩に、農道や灌漑排水施設を整える土地改良事業が実施された。また、同35年頃、連合でつくった河知農協を中心として我部祖河と古我知と内原の3ヵ字を合併する機運が高まり、先駆けて幼稚園は統合されたものの実現はしなかった(ふるさとの顔)。

昭和3年から同4年にかけて、武田製薬が枯河(コカ)を栽培する目的で、当時湿地帯であった字我部祖河の久場又原と字古我知の長又原・古我知原.徳川原、それに字伊差川の古島などの土地を買い取り事業を始めた。この一帯の大半が、我部祖河ウェーキの土地だったという。昭和22年に羽地村内から入植希望者を募り、27世帯を厳選し入植させ、行政区内原が成立したが、地籍は未分離のままである(内原のあゆみ)。

昭和22年に我部祖河と内原・古我知・呉我を校区として、我部祖河の東側の松並木のあるウフェーに稲田初等学校(昭和27年に稲田小学校と改称)が創設された。

我部祖河の産業の現況を就業者の構成について見てみると(同表参照)、就業者202名のうち、第1次産業38%、第2次産業16%、第3次産業47%という構成で、第3次産業が半分近くを占めている。昭和45年~50年の時期に、第1次産業(農畜産業)が急減したが、近年は比重を高める傾向にある。

その農業について見ると、我部祖河の農畜産業は、これまでキビと養豚が基幹をなしてきたが、近年は花き類の比重が高まっている。

ここ15年の動きを見ると、農家数は一時期減少したが、最近は復活してきている。経営耕地面積や収穫・栽培面積は全体として15%前後減少したが、これは他地域に比べると少ない方である。作物別で激減したのはパインと水稲である。一方、花き類は急成長し、現在はキビに次ぐ面積を有している(16.1ha)。

その中には、昭和57年度に我部祖河花き団地(ビニールハウス約1.2ha)が整備されたことも含まれている。

畜産は養豚が中心で、500~700頭規模飼養されてきたが、近年は減っている。

伝統文化

拝所と祭祀

近世の我部祖河の御獄として、「由来記」(1713年)に我部祖河之獄(神名中森之御イベ)が記され、そこは中尾ノロの崇べ所となっている。また、神アシアゲがあり、そこの祭祀は伊差川ノロが司った。当時の月々の祭祀は、ー覧表の「由来記」の記事に見るとおりである。

現在の御嶽は、集落の東方にあるムイと呼ばれる小高い丘にある。その頂上部にはイビ・イビヌメー・オミヤ・アシャギミャーがある。オミヤは昭和47年に造られ、ウッチ火神とニガミ火神が合祀されている。部落の草分けとなった家の一つであるナカヌヤーのすぐ東側には、サニサギドゥクという祭祀場がある。拝井泉には、ムイ(御嶽)の下にジトゥガー、ナカヌヤーの南方にソージガーがある。神役は、部落の草分けとなった三軒のうち、ナカヌヤーとクシヌヤーの子孫である宮城系統と上間系統から出る(国頭の村落)。

現在も続く,伝統的な年中行事は、表に見るように、旧3月3日のサンガチサンニチ(ハン力とも)、4月のアプシバレー、5月15日のウマチー、6月の六月御願、8月1日のテンダチ御願、8日ワラミキ、10日の八月十日御願、11月吉日アプウガンなどがある。

芸能

我部祖河公民館は、ホールがそのまま豊年踊りの舞台になる。

豊年祭は、3年に一度旧8月8日を正日に3日間行なわれ、正日には道ジュネーも行なう。道ジュネーで公民館に戻ってくると、まず棒が演じられ、長者の大主・獅子舞・二才踊というふうに舞台芸能に入る。最後には劇も演じられ、そして棒でしめくくる。得意とするのは松竹梅・高平良万才である。踊り手は、青年会と向上会が中心で、特に長者の大主は向上会長が演じることになっている。つい最近まで「久志の若按司」「花売りの縁」などの組踊りもあった。

40年程前まで盛んだったエイサーは、今はされない。

文化遺産

我部祖河には、県指定の文化財が一件、市指定が一件ある。「我部祖河の高倉」は、名護市内に残る唯一の高倉で、貴重な民俗文化財である。高倉は、稲などの穀物を貯蔵する木造茅葺の倉で、戦前は稲作地帯を中心に各地に建てられていた。

旧家である上間家(屋号仲ノ屋)には、「我部祖河文書」として知られる貴重な古文書類37点が伝存する。近世後期から近代にわたるこの史料群は大きく分けて、「毎年諸祭り記」2点、「元祖由来記」類8点、「御神拝日記」類27点で樹成される。貴重な民俗史料として昭和58年3月23日に名護市の文化財に指定された。

また、小川徹氏の確認による間切文書「法式帳」(同治11年写)もあった(小川:羽地落穂集)。他に、区に戦後まもなくの「毎年諸御願折日記」が保存されている。

我部祖河の名木として、まず稲田小学校の校庭に生育するリュウキュウマツが挙げられる。樹高7m,推定樹齢180年の老松である。今ひとつは、県道を今帰仁に向かう右手の丘に立つダラーギー(リュウキュウハリギリ)で、樹高10.5m、推定樹齢80年を経ている。この樹種では、市内で真喜屋の上之御嶽のものに次ぐ大木である(名護市の名木)。

我部祖河に伝わる伝説の中から一つ紹介する。

上間大主と我部祖河

我部祖河の村を始めたのは、ナカヌヤーの先祖の上間大主だそうだ。

その上間大主は古宇利島のウフェーク屋に生れた。そこから伊平屋島に渡って暮らしていた。しばらくして、国頭間切の宜名真村に渡ったが、すぐ源河村に移り、そこで働いた。それからしばらくして真喜屋村に移った。その村で暮らしている時、上間大主は多野岳に登り、まわりの土地を見た。見ると、今の我部祖河あたりが大変いい土地に見えたので、大主はそこに移り住むことにした。それからそこに村が立ち、我部祖河が始まったという。

(仲の屋家代記より)

我部祖河の小字一覧

ユナガー[与那川原/与那川]

ガブシカー/(アタフ)[我部祖河/我部祖河]

メータ[前田原/前田]

タキンチャ[嵩下原/嵩下]

シリダ[世利田原/世利田]

ウチブック[内袋原/内袋]

ナサダ[奈佐田原/奈佐田]

メーガマタ/メーガヌマタ[前川又原/前川又]

クバーマタ[久場又原/久場又]

アプグシクヤマ/(チブヤ)[大城山/大城山]

我部祖河は10の小字からなる。集落はガブシカーを中心にタキンチャに広がる。ガブシカーは、昔アタフとも呼ばれたが、その名は小地名として残る。タキンチャには明治頃瓦工場があったという。低地のシリダ・ウチブックは大正~昭和期の羽地大川改修および耕地整理によって小字区画が変更され、かなり小さくなった。南のクバマタは行政区内原の区域となっている。北のナサダ・メーガマタ(別称マトゥルガー)・アプグシクヤマ(別称チブヤ)は山地域である。奈佐田川は、以前は古我知川と呼んだ。なお、明治36年の小字名に内原がみえる。

我部祖河小年表

1929年 武田薬草園コカ等の栽培を始める。

1933年 古我知と連合して産業組合を設立。

1941年 産業組合解散。

1947年 8月我部祖河・古我知に係る地域に開拓集落・行政区内原成立。

我部祖河・古我知・内原・呉我を校区として稲田初等学校を創立。

1952年 稲田小学校と改称。

1954年 古我知・内原と連合して河知農協を設立。

我部祖河の行事。活動一覧.昭和61年1~12月

1.1 新年マラソン

古典音楽愛好会演奏

1.2 交通安全祈願祭

1.3 生年祝 * 各戸で

1.8 字誌編集委員会 *ほぼ毎月開催

1.11 二組常会

2.20 代議員会 *本年あと5回開催(4-2回、7、8、12月)

2.22 わんぱく子供会映写会

4.8 清明祭

4.13 サンガチサンニチ(旧3.3)

4.25 神人ゆるさぎ御願

4.25 老人会総会

4.27 産業視察

4.28 戸主会

5.14 老人会公民館清掃日

5.18 排水・生活用水清掃日

5.29 向上会常会

6.1 アブシバレー(旧4.吉日)

6.8 -組ピクニック

6.9 婦人常会

6.21 ウマチー(旧5.15)

▲ヒチュマ(旧6.吉日)

▲年浴(由来記)

7.4 農研グループ定例会

7.6 婦人会バレーボール大会

7.20 区民運動会

7.22 河知交通安全友の会総会

7.30~8.1 ルクグヮチウグヮン(旧6・24~26)

▲ウンギャミ

8.12 七夕(旧7.7)

8.20~21 盆踊り(旧7.14~15)*青年会主催

▲柴差(由来記)

9.4 テンダチ御願(旧8.1)

9.11 ワラミキ(旧8.8)

9.13 ハチグヮチトゥカウグヮン(旧8.10)

9.30 婦人常会

▲九月御願

▲種籾御願

10.6 婦人常会

10.8 青年・向上会合同常会

10.16 河知交通安全友の会

▲寵廻御願

11.13 向上会常会

11.17 老人会常会

11.27 産業視察

12.9 キビ搬入懇談会

12.14 アプウガン(旧11.吉日)*ウンネーも一緒に行なう。

朝起き草刈り作業

12.26 老人会清掃作業